☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

                            前月   日記2011年  次月  

2011年 6月


 2011年 6月26日 (日)
  写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

コンクリートの格子から左が駅事務所、右が待合室だった。 右端の下屋の部分
に売店があり、改札口の左には鉄道貨物受付の低いカウンターがあって真鍮の
分銅がついた大きな緑色の天秤台が奥に陣取っていたと思う。 



        現在のJR沼の沢駅 (2010年10月撮影)

現在は建物の左半分がレストラン「おーやま」となっている。 「おーやま」の
カツカレーは質・量ともにお勧めしておきたい。 横断歩道の向こう側の信号機の
柱に隠れて目立たないが、電話ボックスの位置だけは昔と変っていないようだ。



        JR沼の沢駅の待合室風景 (2009年8月撮影)

時刻表が架かった白い壁の部分がかつて売店だった。「カツゲン」が好きだった・・。



      1991年8月(今からちょうど20年前)の沼の沢駅前商店街

写真の「おーやま」の看板の向こうは、現在「Aコープ沼の沢店」になり、右端の
建物から以前の農協ストアにかけてはガソリンスタンドになっている。
この写真の建物の中で、今でも残っているのは左端の丸藤・佐藤商店だけである。
この店では昔、農作業や真谷地鉱から戻ったおじさん達が「もっきり(盛切り)」で
清酒を飲んでいたものだ。(「もっきり」は枡を受皿に使うコップ酒の量り売り。)
駅を出て左、跨線橋の袂にあった洋裁学校も、今は更地になってしまった。
 

 【 シリーズ「駅」(5) 沼の沢駅 】
 第5回は沼の沢駅です。  かつては北炭真谷地線の
 乗換え駅として、また夕張新炭鉱の石炭積出駅として
 多くの側線と列車で賑わっていた駅です。

 写真の左端にちょっとだけ写っていますが、今トイレ
 がある場所には、貨物用の四阿(あずまや)があって
 貨物が山積みになっていた時代もありました。 右の
 枠外には真谷地線のホームへ行くための跨線橋もあり
 真谷地方向へ歩いていく際の近道でもありました。
 小さい頃、この跨線橋の階段を竹馬で登る競争をした
 ものでした。 

 跨線橋を渡ると、後に新鉱の建物が林立することにな
 る一帯はかつて木工場の貯木場で、大人の腕が回らな
 いほどの直径の丸太が一面に積み上げられていたもの
 でした。 ここを抜け再び真谷地へのバス通りに出た
 切割りの上に馬頭観音があって、沼の沢駅や市街を見
 渡すことができました。TOPページの「緑の谷 遥か」
 はここから望む夏の景色を音楽にしたものです。

 真谷地線は確か昭和41年まで客車を牽いていました。
 沼の沢駅を出ると大きく右にカーブするあたりが急な
 登りだったのでスタートの加速が一番大変で、動き出
 した列車から降りて小用を済ませ、再び列車に飛び乗
 ることができたほどでした。 この真谷地線はその後
 ディーゼル機関車になり、1987年の真谷地鉱閉山
 まで走り続け北炭最後の石炭を運ぶことになります。

 駅の売店は昔は周辺で唯一の雑誌を置いてある店で、
 金曜日に少年サンデーを買いに行くのが、幼いころの
 私の楽しみでした。 今は1冊いくらするか知りませ
 んが、当時は37円(歳がバレる・・)だったと思い
 ます。  同じころの真谷地市街(郵便局前)までの
 バスの子供料金が15円でしたので、マンガも決して
 安くはなかったということになりましょうか。

 沼の沢駅にはこの写真より更に前の姿もある筈ですが
 記憶が定かではありません。 今の郵便局や先日閉店
 した菓子店の「ふじ井」があったあたりは昔は土手で
 3mほど高くなっていて鉄道官舎が建っていました。
 官舎の間には2か所の井戸があって、きれいな水が湧
 き出ていました。 確かバス道路が舗装になったのと
 同時期に整地され、平らになったと思います。

 沼の沢駅は現在は完全に無人駅で、レールも単線です
 が、往時は3番ホームまでありました。 改札を出る
 と正面に、一旦ホームから線路まで降りて2-3番線
 に渡る階段がありました。 階段は普段は厚い木製の
 板でフタをしてあって、準急(今の快速列車より少し
 急行に近い列車)に乗るときなどにフタを開け階段
 を使いました。 今では安全上考えられませんね。

 沼の沢駅は滝の上まで校区が広がっていた向陽中学校
 の通学駅でもありました。 昭和30年代の末くらい
 までは、汽車通の学生を駅で全員整列させて学校まで
 毎日行進させていたそうです。 これも今では信じら
 れない話です。
 
 一番下の写真は、駅の半分がレストラン「おーやま」
 になって間もない頃のものです。 右端1階が床屋で
 私は今もこの床屋さん(もちろん店は移転している)
 に通い続けて間もなく半世紀、今や店で最も古い客に
 なっています。 隣の「孝寿司」にはとうとう一度も
 入ることなく終わりました。 昔は家族で外食なんて
 とんてもない、ましてや寿司屋など全く縁遠い店でし
 たから。

 その左、高間商店と孝寿司の間の道を入ると、右手に
 精米所がありました。  ここではモーターから皮の
 ベルトで精米機を回していて、ベルトの滑り止めに松
 脂(まつやに)を塗ったり、逆転させるためにベルト
 を8の字に掛け直したりするのを飽きることなく眺め
 ていたものでした。 

 精米所の更に奥が農協の店舗で、確か昭和44年に改
 装したと思うのですが、この店が出来たときは沼の沢
 も都会になったものだと思いました。その時代にして
 ほぼ現在のスーパーと同じ形態でしたから。

 茶色の壁のかんばやし商店は、お菓子+食堂をしてい
 ました。 向陽中学校でお昼休みにパンを売りに来る
 のもこのお店でした。店先で「おやき」を焼いていて
 おいしかったですが、一番印象に残っているのは風邪
 をひいた時だけ飲ませてもらえた瓶のコーヒー牛乳の
 味でした。 

 
 さて現在の駅前は、今名前を挙げた全ての建物が取り
 壊されています。 床屋さんや寿司屋の跡はガソリン
 スタンドに、高間商店とかんばやし商店跡はAコープ
 沼の沢店になっています。 新鉱の跡は冷凍食品工場
 になりました。 向陽中を継いだ緑陽中は昨春に閉校
 し、沼の沢小学校を継いだ緑小学校も今春閉校となり
 ました。 

 正確な数字は覚えていませんが、ピーク時の沼の沢の
 人口は2500人強だったと思います。元々農林業を
 基幹産業とし、夕張の中では炭鉱の影響が少ないはず
 の沼の沢ですが、先日ついに地区の人口が1000人
 を割ってしまいました。 駅の周辺も訪れるたび建物
 が減っていき、本当に寂しい限りと思っています。



 2011年 6月23日 (木)

  写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

写真の男性の後ろ姿に何ともいえない哀愁が漂っている気がする。
踏切の警報機が写っているが、現在はこの踏切の道を画面右に進んだ坂の上に
市内で唯一の中学校となった「夕張中学校」がある。駅の姿はここも昔と変わって
いないようだ。




          写真は国土交通省 国土計画局HPより (1977年撮影)

1977年(昭和52年)の南清水沢駅周辺。夕張川の中州は今もあるのだろうか。
当時ただの裏道に過ぎなかった南清水沢駅前の道路は今や国道である。 
バス通りの方が道道1008号(※注)で、すっかり立場が逆転してしまった。

 ※注 : この写真撮影当時は道道834号だったようだ。(出典Wikipedia )

 【 シリーズ「駅」(4) 南清水沢駅 】
 第4回は南清水沢駅です。 南清水沢駅の開業は昭和
 37年だそうですから、市内の駅の中では十三里駅と
 並んで最も新しい駅です。

 駅ができた経緯ははっきり知りませんが、約500m
 沼の沢寄りにある夕張南高校(現夕張高校)の通学駅
 としての役割が強かったのでは、と想像しています。
 その後清水沢中学校が、駅に隣接する交差点を西側に
 登った高台に移転し、現在はそこが夕張中学校になり
 ましたので、二つの学校の最寄り駅になっています。

 私の母が真谷地から南高校に通っていた頃は、まだ南
 清水沢駅は無かったので、2km歩いて清水沢駅から
 列車に乗るか、沼の沢駅まで2.5km歩いて真谷地線
 に直接乗るかは微妙なところだったようです。

 この辺りから沼の沢にかけては、夕張市内で最も谷の
 幅が広い所で開けた印象がありますが、反面冬は吹き
 さらしになるので、吹雪の日の通学は大変だったので
 はないかと思っています。

 私は北高でしたので、南清水沢駅は毎日通っていまし
 たが、私の通っていた頃の国鉄南清水沢駅は全国でも
 唯一の「職員が全員女性の駅」でした。 確か全部で
 四人の職員がおいでだったと思いますが、当時は新聞
 やテレビでもずいぶん取り上げられていました。

 「Wikipedia」によれば、南清水沢駅は昭和59年3月
 末で簡易委託駅、つまり国鉄職員がいない駅になりま
 して、JRとなった今でも続いているようです。です
 から夕方以降は完全に無人駅ということですね。

 駅舎の印象はここも開業当時とあまり変わっていない
 と思います。 ただ周囲の道路はだいぶ様子が変りま
 した。以前はただの市道に過ぎなかった夕張高校から
 南清水沢駅前を通る道が現在は国道452号になって
 いるんです。

 452号は紅葉山で国道274号から分岐し、沼の沢
 から南清水沢~清水沢~大夕張~三笠~美瑛を経由し
 最終的に旭川が終点となる国道です。 もっともまだ
 一部未開通のようですけれど。
 
 ですから駅から約1km南のJRの陸橋の所の交差点
 も、沼の沢方面から来ると国道であるこの道が直進で
 道道1008号のほうが脇道のような感じになってます。
 これは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか・・・。

 全盛期の夕張南高校は普通科・商業科・定時制があり
 全生徒数は今の夕張高校の5倍以上になりましたから
 南清水沢駅は鹿の谷駅と同様、「学生の駅」でした。
 一昨年でしたか駅前に行ってみましたが、お昼時の駅
 には人影もなく静かなものでした。  目を閉じると
 昭和40年代の喧騒が今でもそこにあるような感覚に
 捉えられ、少し不思議な感じがしたのでした。




 2011年 6月 21日 (火)
 【 5年目に突入 】
 2007年6月21日にこのHPを立ち上げて以来、早いもので丸4年が過ぎまして今日から5年目に入ります。

 校歌はHPで未発表のものも含めると、この4年で22曲を編曲しました。  現在は23曲目となる登川小学校の校歌を
 編曲中で、校歌編曲ももう少しでようやく折り返し点(学校数の半分)が見えてきそうです。

 おかげ様でこの一年も多数の方々からメールをいただき、たいへん感謝申し上げるとともにこれを励みに残りの校歌の編曲
 や夕張をテーマにした作品の制作を続けて行きたいと思っております。 今後ともこのHPをよろしくお願いいたします。



 2011年 6月17日 (金)

 写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

1972年3月といえば、札幌オリンピックの終了直後。来年で40年になるのだけれど
清水沢駅の駅舎は市内の駅の中では一番変っていないかもしれない。
壁の無塗装のモルタルの雰囲気も現在と変わらない印象である。  
夕張でタクシーが常駐していた駅はここだけだったと思うけれど、昨年この駅を
訪ねたときも、まだ駅前に客待ちのタクシーが2台いたのは何だか嬉しい気がした。
写っている人の服装はもう今とそんなに変わらない気がするが、クルマには時代を
感じる。写真のトラックは2代目トヨタ「ダイナ」。 現在の8代目ダイナは今や
台数の1/3近くがハイブリッド車だそうだ 。




        現在のJR清水沢駅 (2010年10月撮影)

昨年秋に撮影した現在のJR清水沢駅。鹿の谷駅同様、窓は一部が潰されている。
人がいなくなってしまったのに、道路だけは立派になった。清水沢駅前も道路は
拡幅され両側に歩道が付いている。駅舎自体の形はほぼ同じだと思うのだけれど
周りが何もなくなってしまったので妙に寒々とした感じがする。
駅と同じ並びの建物もほとんど取り壊されてしまった。  




      現在のJR清水沢駅待合室 (2010年10月撮影)

今や石勝線夕張支線に入ってからは、ここが唯一の有人駅(※注)。 
この写真右手が改札口、左手がバス道路側である。   
壁には「頑張れ夕張!!」の文字が。

 ※注 : 南清水沢駅は簡易委託駅であり、分類上は無人駅である。

 【 シリーズ「駅」(3) 清水沢駅 】
 第3回は清水沢駅です。 今回転載させていただいた
 写真は、どれも1972年3月下旬の撮影ですから、来年
 でちょうど40年になりますが、当時の姿を一番よく
 残しているのが清水沢駅の駅舎だと思います。

 といってもこの写真の当時は三菱南大夕張鉄道がまだ
 客車を走らせていましたし、国鉄も石炭列車を一日に
 何本も走らせていましたから、引き込み線も含めれば
 駅構内にはかなりの数のレールが敷かれていて、いわ
 ばこの写真は駅の全盛期の頃の写真。 現在は完全に
 単線化されホームは一つで跨線橋も撤去されてしまい
 ましたから、当時と同じというわけにはいきません。

 また駅前のスペースも、バス道路が拡幅されて歩道も
 付けられたため、現在は上の写真の半分くらいの広さ
 になっています。 もっとも駅の並びの建物が取り壊
 されたので、駐車場に困ることはありませんけれど。

 駅前の道は広くなりましたが、今や若菜側から来ても
 沼の沢側から来ても、旧南高校や南清水沢駅の前から
 以前の総合グラウンドに抜ける道が直進つまり「表」
 の道で、清水沢駅前を通る道は「裏」通りであるかの
 ような扱いになっているせいもあって、駅周辺は人影
 も少なく閑散とした印象は免れません。
 
 駅周辺で一番昔のイメージのまま残っている気がする
 のは書店の「文化堂」です。 昨年10月9日のこの欄
 も紹介しましたが、ここは壁の色が変わったくらいで
 場所も店構えも変わっていません。  恐らく今では
 夕張唯一の書店だと思いますので、教科書や文房具も
 一手に引き受けているんじゃないでしょうか。
 
 私も清水沢は地元ではないので、ここから先は記憶が
 怪しくなりますが、バス通りから駅の正面の交差点を
 入って左手が「文化堂」ですが、文化堂は角ではなく
 て、角には屋号が記憶にないけれど、おやきを売って
 いた小さな店があったと思います。 おやきを買うと
 麦茶が出てきまして値段も安かった覚えがあります。
 私の母が南校に通っていた頃からあったそうなので、
 かなり昔からあった店だったようですが、もちろん今
 は残っていません。

 おやきやさんの隣は確かラーメン屋さんだったと思う
 のですが、昨年訪ねた時によく確認してこなくて写真
 にも写っておらず、これまた自信がありません。

 ラーメン屋さんの並びで更に若菜方向に行ったあたり
 には小さなガソリンスタンドがあって、親戚で唯一の
 自家用車を持っていた伯父が、ときどきここで燃料を
 入れていました。 伯父の車は2サイクルエンジンの
 軽乗用でしたから、このスタンドに来て手回しポンプ
 のついたドラム缶から直接「混合燃料(ガソリンに潤
 滑油を予め混ぜておいたもの)」を給油していたもの
 でした。 この話をしても、若い方にはたぶん何の話
 かもわからないと思いますが・・・。
 
 中学生になって初めてグラスファイバー製のスキーを
 買ってもらったのですが、この時は「十字屋」に来ま
 した。「十字屋」の場所はこれまた自信がないけれど
 「長寿庵」より南清水沢寄りにあったと思います。 
 買ったスキーは「アジア」製でしたが、この名も今で
 は記憶の中だけのものになってしまいました。
 
 「ツバメ電器」にも何度か来ました。「リリーズ」の
 お二人の実家ですね。 リリーズのお父さんはとても
 商売の上手なかたで、テレビなどそろそろ買いえ時期
 かなと思えるときに訪ねてこられて、「試しに一週間
 ほど置いていきますから」と、さっさと新型を据えて
 いっちゃう。 そりゃあ新しいのを見てしまうと返す
 とは言わないですよね。 この調子で我が家の主要な
 電気製品は大半が「ツバメ電器」からのものでした。
 昨年あらためて店の場所がどこだったか思い出そうと
 したのですが、どうしても判りません。 何度も店に
 行ったはずなのですが、記憶というのは存外あてにな
 らないもののようです。



 現在夕張市で人口が最も多い清水沢地区ですが、実は
 内訳では南清水沢と清陵町が6割以上を占めていて、
 清水沢駅周辺の人口は450人ほどに過ぎません。 
 駅待合室に「頑張れ夕張!!」と書いた赤いポスター
 が貼ってありました。 今回の震災で迂闊に「頑張れ」
 と言うことの軽率さを知りましたが、それを承知で最
 後に私も「頑張れ夕張!!」と言いたいと思います。



 2011年 6月15日 (水)

  写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

この頃の鹿の谷駅は現在よりずっと大きな建物に見える。駅舎自体の面積は実は
変っていないはずなのだが。   駅舎に入ると左奥に売店があったと思う。
またこの写真の左枠外にはトイレと貨物集積用の四阿(あずまや)があった。 




          写真は現在の鹿の谷駅 (2010年10月撮影)

ここも現在は無人駅。 乗り降りする人の姿もほとんどない。 
建物の外形はほぼ同じはずだが、何とも平板で無味乾燥な
建物になってしまったと感じるのは私だけ・・・?



  2010年10月時点でのJR鹿の谷駅の発車時刻表。

列車の本数も今はこのくらい。  このダイヤだと部活はきびしいなあ。
もちろん、今やこの地区に学校はひとつも無いのだけれど・・・。

 【 シリーズ「駅」(2) 鹿の谷駅 】
 シリーズ第2回は鹿の谷駅です。 鹿の谷駅は、私に
 とって通学で三年間お世話になった思い出の駅です。

 当時(昭和40年代後半)は、まだ夕鉄も残っていた
 ので、夕鉄の引き込み線もあって列車の往来は多く、
 乗降客も一般のお客さんに加え、北高と工業の2校の
 学生がいましたから、鹿の谷駅は活気にあふれていま
 した。

 夕鉄はすでに旅客輸送をやめていたので、長い跨線橋
 も途中までしか使われていませんでしたが、跨線橋自
 体は往年の姿を留めておりました。 私は帰宅時には
 追分方面への列車に乗るのですが、この時は跨線橋を
 渡って2番ホームを使っていました。

 目の前では入替え用の蒸気機関車が動いていましたし
 保線や除雪などの特殊な車両も目にすることができま
 した。 駅より少し末広寄りには、夕鉄の車庫や給水
 塔も建っていたと記憶しています。

 「汽車通」とはいっても私の時代、すでに国鉄は旅客
 輸送を完全に気動車化していましたから、蒸気機関車
 は貨物専用だったのですが、貨物列車イコール石炭輸
 送用の列車でもあって、その本数はまだまだ多かった
 ので、蒸気機関車はよく目にしていました。 鹿の谷
 駅に限らずですが、駅は機関車の煤煙が入り混じった
 独特の空気に包まれていたものです。

 前にも書いた気がしますが、北高から鹿の谷駅へ至る
 ルートは「茶楽」のあった交差点からバス通りを下り
 旧市場のところから線路下の未舗装の裏通りを歩いて
 最後に急な坂を登り、石造りの倉庫の脇を通って駅に
 着くというものですが、これだと駅に向かって右へ大
 回りすることになるし、いったん坂を下ってまた登る
 というロスもあります。

 そこで列車に間に合いそうもなくなると奥の手を使う
 ことになりました。 バス通りの洋裁学校の下の踏切
 から、線路を全力疾走するんです。  最大の難関は
 旧市場裏の鉄橋で、これは本当に鉄道用の鉄橋でして
 レールの間に金網が張ってあるだけの、当時は手すり
 も無ければ足元も透けて見える橋でした。 この橋を
 両手に学生鞄と楽器のケースを抱えて全力疾走してい
 たのですから、今考えれば「無謀」の二文字しか当て
 られないような所業であります。(この橋です。)
     
 駅からは拡声器で怒鳴られるし、一番ひどい時は背後
 から近づいてくる列車に警笛を鳴らされたこともあり
 ました。  たいへんご迷惑をお掛けしましたことを
 今さらながらお詫び申し上げます。 良い子は絶対に
 真似をしないようにね・・・・。


 現在の鹿の谷駅はかつての跨線橋の位置に、歩道橋の
 ような形状の橋が架かっており、線路は単線で、もち
 ろん引き込み線など全く無く、ホームも一つだけの無
 人駅となっています。

 この数年何度か鹿の谷駅を訪ねているのですが、そう
 いうこと以外に、駅舎そのものの印象が昔と違うよう
 な気がしてなりませんでした。  外壁がモルタルに
 なったせいかとも思ったのですが、昔の写真と比べて
 みて良くわかりました。 窓が大幅に減り、入口の上
 の子屋根が無くなってしまったのですね。 これだけ
 で何だか味も素っ気もない建物に見えてしまっている
 気がして、とても残念に思っております。

  


 2011年 6月12日 (日)

  写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 
 

駅舎を通らずに直接外に出られる改札口というのは、ありそうで滅多にないかも。
近くの夕張神社には一度だけ高文連の道大会に行く列車の待ち時間に行ったこと
がある。引いたおみくじは凶・・・案の定、大会の演奏では一番肝心なところで
思い切り間違えた。  だから夕張神社に良い思い出はない・・・。 
なお、私の記憶が正しければ、写真のトラックはプリンス「マイラー」。日産と
合併する前のプリンス自動車が作っていた珍しい車で、ドラマ「北の国から」で
黒板五郎が乗っていた日産「ジュニア」の前身となった車・・・だと思う。
(あまり自信はない。)



          写真は国土交通省 国土計画局HPより (1976年撮影)

 今や炭鉱病院の一部以外、この写真にある建物全てが消え去ってしまいました。

 【 シリーズ「駅」(1) 夕張駅 】
 夕張は旧国鉄のほか、夕張鉄道・三菱南大夕張鉄道・
 北炭真谷地線の三つの私鉄がありました。 あの狭い
 谷間に4系統の鉄道が走っていたことになります。

 私は高校時代いわゆる汽車通でしたから、その中でも
 国鉄には毎日お世話になりました。 改めて数えれば
 当時市内には国鉄の駅だけで10駅ありました。 

 北から順に夕張・鹿の谷・清水沢・南清水沢・沼の沢
 ・紅葉山・十三里・滝の上それに登川支線の楓・登川
 の各駅です。現在は楓・登川の両駅は無くなり紅葉山
 は新夕張に名が変わっているのはご存知の通りです。
 それぞれの駅にはそれぞれに思い出があって、いつか
 ここで書いてみようと思っていたんです。 

 ところがいざ書こうとすると、駅舎の写真が全くない
 ことに気がつきました。 SLの写真は持っているの
 ですが、駅舎はほとんど写っていません。 おそらく
 あまりに日常過ぎる風景だったので、フィルムに残そ
 うという意識すら働かなかったのだと思うのです。 
 
 実は以前から拝見していたHP「轍楽之路」のブログ
 に1972年春の各駅の姿が見事に撮影されていまして、
 いい写真だなあといつも思っておりました。 

 そこで先日思いきってHPを作られている寺田牧夫様
 にメールで写真転載をお願いしたところ、快くお許し
 をいただくことができました。
 
 今日から1駅ずつ、転載させていただいた写真と共に
 当時の国鉄の駅とその周辺の思い出を綴っていきたい
 と思います。


 第1回は夕張駅です。 大正時代に写真の姿になって
 以来、長い間夕張の玄関として親しまれてきました。
 昭和60年に駅が市民会館と隣接した場所に移転した
 後も「石炭の歴史村」の管理事務所として使われてき
 ましたが、2006年秋に道道38号線の拡張工事に伴い
 解体されました。 なお現在の夕張駅はMtレースイ
 の前に移転しています。

 夕張駅のいわゆる「寄せ棟」の大きな屋根は、札幌の
 時計台や旧室蘭駅などと同形式で、明治から大正時代
 を代表する様式といえ、中々風格のある建物でした。

 駅を出ると左手に水準標があって、記憶に自信がない
 のですが確か「333m」と書いてあったと思います。
 それが海抜だったのか標高だったのか、とにかく夕張
 は東京タワーの先と同じ高さなんだ、と思った記憶が
 残っています。

 写真ではトラックの横に「夕張第一製パン」の文字が
 見てとれます。 たぶん駅の売店にパンを納入にきた
 のでしょう。 夕張のパンは、ここか北沢食品でした
 よね。(個人的には北沢の豆パンが大好きでした。)
 
 背景に選炭機と石炭列車への積出施設(ポケット)が
 写っていますが、下の航空写真で駅舎と比較すると、
 改めてそれらの建物の巨大さが判ります。

 子供の日のこの欄でも触れましたが、線路沿いに国鉄
 の購買所がありまして、小さい頃何度か来たことがあ
 ります。(場所は記憶が怪しいですが) 私は薄暗い
 購買の中よりも、目の前にある転車台で蒸気機関車が
 方向転換するのを眺めている方がずっと好きでした。

 購買から鹿の谷寄りには橋があって、春先には選炭機
 の排水が雪解け水で増水して、川の水がコーヒー牛乳
 の色の濁流(文字通り濁流ですね)となりました。 
 今にしてみれば、あの濁った川の勢いこそ当時の夕張
 の勢いそのものだったのかな、などと思っています。



 歴史的建造物として保存されている旧室蘭駅に比べ、
 夕張駅は道路拡張のために解体されてしまいました。
 以前の道路で何が不足だったのか、未だ判りません。
 しかも現在この万字に抜ける道道38号は「災害により
 通行止め・復旧は未定」だそうで・・・お金を掛ける
 ポイントが完全にズレてやしませんか、とつい毒づき
 たくなる私です・・・。 



 2011年 6月 9日 (木)
 【 散り際の美学 】

 『散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ 』


 これはNHKの歴史番組で紹介されていた細川たま(ガラシャ)の有名な辞世の句で、私の記憶が正しければ、彼女の子孫
 にあたる細川護煕さんも職を辞す際に引き合いに出していた気がします。 

 人間、引き際は大事です。 椅子に妄執するのは醜いだけでなく時に迷惑です。 誰のこととは言いませんが・・・。



 2011年 6月 6日 (月)
 【 思わぬ活用法 】
 二三日前に札幌で「臨床救急医学会」という学会が開かれたそうですが、その席で校歌の思わぬ活用法が、調査結果として
 発表されたという新聞記事を読みました。

 校歌のテンポと曲の長さが、救急時に心臓マッサージを施す際の胸骨圧迫リズムと、術者交代のタイミングにほぼ合致する
 ため緊急時の目安として使える、という内容です。 心臓マッサージは1分間に約100回が基本で、また力が必要なので
 1分半~2分で交代するのだそうですが、校歌はテンポがこれに近く、長さも短い校歌は3番まで、長い校歌なら2番まで
 歌うと、だいたい1分半~2分(=90~120秒)となるので、校歌に合わせて心臓マッサージを施すとちょうどいいと
 いうことなんです。

 改めて調べてみたのですが、このHPで公開している校歌も数値的にはそれに近いようです。
 
   校名     テンポ(拍/分)  歌詞1番あたりの長さ(秒)
  ゆうばり小     112         44
  夕張中(新)    108         54
  夕張(南)高    109         63
  北陵中       104         47
  千代田中      112         47
  清水沢小      105         47

 なるほど、確かにテンポは100より少し早いだけですし、長さは2番まで歌うとほぼ90~120秒になるようですね。
 面白いのは感覚的に速い印象のある千代田中もスローな印象の北陵や清小も、実際のテンポには印象ほどの差はないという
 ことと、1番あたりの長さがぴったり同じだ、ということでしょうか。  歌詞が2番までしかない夕張高校は、代わりに
 1番あたりの長さが長めに出来ているということも、こうして見るとちゃんと数字に出ているんですね。
 
 まあ心臓マッサージをする機会など滅多にないでしょうし、そんな機会は訪れないに越したことはありませんが、覚えてお
 くと、まさかの時の役には立つかもしれませんね。



 2011年 6月 4日 (土)
 【 夕張40’s(フォーティーズ) その12 】
 このシリーズ、「その11」を書いたのが昨年の11月16日でしたのでずいぶん間が空いてしまいましたが、思いだした
 折りに(つまりは気まぐれということですが)書いているので、どうかご容赦を。

 今日「ゆうばり小学校」では運動会だそうです。 つい自分の小学生の頃の運動会を色々と思い出してしまいました。

 私の子供はもう社会人ですので、自分の運動会どころか、自分の子供の運動会ですら昔の話になりつつありますが、記憶に
 ある昭和30年台後半~昭和40年台前半の運動会は今の都会の学校の運動会とはずいぶん様子が違っていたようです。
 
 まず子供の服装から言いますと、まだジャージが登場していません。 ですから服装はけっこうばらばらでした。 足元も
 ジョギングシューズもスニーカーももちろん存在しないので、皮の足裏がついた足袋でした。 個人的には、子供心にこの
 足袋というのが履き心地もデザインも好きになれず、毎回気が重かった記憶があります。 私は運動が苦手で走るのも極端
 に遅かったので、よけい嫌だったのかもしれません。 子供だった私たちの服装は、昭和43、4年あたりから急激に今に
 近づいたように思います。 それはちょうど給食の脱脂粉乳が瓶の牛乳に替わったのと同じ時期で、日本が高度経済成長期
 の入り口に差しかかった頃だったのでしょう。

 そういえば校区に農家が多かったはずなのに、当時も運動会は農作業が忙しい6月ごろでした。 それでも父母の皆さんも
 そんなに欠席されていなかったようで、今にして思えば相当大変だったろうと想像しています。

 私の小学校は300人近くの児童がいたので、運動会は賑やかでした。 当時は6月の小学校の運動会に加え、秋に町内会
 の運動会があって、どちらの時にも学校前の道路に出店まで出たものです。 秋の町内対抗の運動会には仮装行列大会まで
 あって、力の入ったところはトラックに架装した山車まで作る凝りようだったものです。 2回の運動会は町の大イベント
 でした。

 ラムネやサイダーも滅多に口にできない時代で、運動会はこういう飲み物が飲める貴重な機会でもありました。 そうそう
 バナナ(台湾製がブランド品だったと思いますが)もその類の食べ物で、私は小学校低学年の頃の運動会でこの時とばかり
 意地汚くバナナを食べ・・確か7本食べたと思うのですが・・鼻血を出して倒れたことがあります。 全くお恥ずかしい。


 あれから50年近くの時が過ぎ、子供たちの服装や食べ物はあの頃とは比較にならないほど豊かになりました。  しかし
 夕張の私の通った小学校のグラウンドでは、肝心の子供たちの声はもう聞くことができません。

 もし現代を生きる子供たちに、彼らと私たち、どちらが幸福な時代を過ごしているかと問われたら、いったい何と答えるべ
 きか・・・。 昨日の国会中継なんぞを見ているとなおのこと、何とも答えに窮するのでありました。



 2011年 6月 1日 (水)
 【 なにより人件費・・・ 】
 最近になって十数年使っている腕時計の狂いがひどくなりました。 私のは昔ながらの機械式、それも昔懐かしい自動巻き
 (振ったらゼンマイが巻かれる)の時計なので、クォーツに較べればもともと正確さで劣るのですが、一日に5分も遅れる
 ようになり、ちょっと油断すると約束に遅れそうになったりして、さすがにこれはまずいと思うようになりました。

 そこで専門の修理屋さんでオーバーホールの費用と時間を聞いてみました。 示されたのはなんど4万円(!)近い金額。
 完全に新しい時計が買えるお値段で、時間もほぼ1カ月かかるそうです。 結局愛着もあるのでお願いすることにしました
 が、思わぬところで痛い出費となりました。 まあ、オーバーホールは職人さんの手作業ですから・・・。

 印刷により一瞬で製造可能な集積回路を使って作るクォーツ式よりも、金属を削るぶん時間がかかる歯車を多用した機械式
 時計のほうが値段が高くなるのは現代では常識となってます。 まさに時は金なりで、かかる時間はそのままコストに反映
 されるということですね。 ましてや熟練した人の手作業で時間をかけると、これは何よりコストに跳ね返るということを
 身をもって体験したような次第です。 

 でも負け惜しみではないですが、ここで「買い替える方が安い」とやっちゃうと、そのうち職人さんの技術が消えてしまい
 そうで、それはやはりまずい。 まあこれはこれでやむを得ないかな、と・・・いやホントに負け惜しみですけど。(泣)







                             前月   日記TOP  次月  


                             ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


音風景・夕張

ユーパロ谷 気まぐれ日記