音風景・夕張

ユーパロ谷 気まぐれ日記


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2009年11月


 2009年11月28日 (土)


 【 もう一つの名産品 】
 夕張の名産品といえば、それはもう間違いなく「夕張メロン」ですが、メロンほどの知名度はないけれど
 内心これは最高と思っているのが「長いも」です。 最近知名度を上げた自然薯(じねんじょ)なんかに
 絶対負けない・・・と思っているのですが。

 大々的に売り出すには収量が見込めないんだ、と夕張の友人に聞いたことがありますが、味は甘みもコク
 もあって大変おいしい。 沼の沢の「おーやま」なんかでは長いもを使ったメニューも用意していて少し
 ずつ知名度を上げつつあると思いますが、今風の言葉を使えば「プレミアム・ブランド」を名乗るにふさ
 わしい逸品だと思っています。
 
 夕張の親戚から、その長いもをいただきました。 
 近頃の若い人はこういう食材をあまり好まないようで、確かに私も好んで食べるようになったのは、ある
 程度の年齢になってからだったけれど、若い人もだまされたと思ってぜひ一度食べてごらんなさい。 
 とろろ汁なんて絶品ですよ、ほんと。 



 2009年11月25日 (水)
 【 近くて遠い 】
 まさか私の声(10月19日の日記参照)が届いたわけでもないでしょうが、「夕張鹿鳴館」内のレストラン
 「ミレディ」のサイトに料理の値段が載るようになりました。 いまだに食べに行けていないのですが、
 知人の評判は上々なので、値段の絶対額はこの種のレストランとしては決して高くない(といっても、や
 はりメニューの上のほうには手が出ないですが)ことですし、ぜひ一度行ってみたいと思います。 どな
 たか、もう行かれた方がおいででしたら、どうかご感想をお聞かせください。   

 長沼に「ハーベスト」というファーム・レストランがあります。 私はここは、できた直後からのファン
 なのですが、畑の真ん中なので冬場は客足が激減する、と道新の記事にありました。 特に昨今の食べ物
 屋さんは女性客が多いですから、冬場の運転を敬遠するのでしょう。 峠が良くなったとはいえ、冬場に
 夕張に行くのはやはり億劫に思う人も多いかも。 札幌あたりを起点に、ランチ付きの日帰りバスツアー
 なんかを企画していただけると冬の間でも安心して行けるんですけどね。


 現在お引き受けしている曲が何曲かありまして、さらに進行中のお話もあり、けっこう忙しくなってまい
 りましたので、ここ当分は夕張へ行けそうにありません。  こりゃあ春まで行けないかも・・・。
 夕張、近くて遠いなあ・・・。



 2009年11月23日 (月)

 【 夕張40’s(フォーティーズ) その3 】
 大正生まれの父と、家内が某コンビニで数日前の発売日に入手してきた「ボジョレー・ヌーボー」を飲み
 ながら、昔話になりました。 ちょうどテレビの「世界遺産」でタージ・マハルを紹介していたのですが、
 登川育ちの父は、小学校で初めてタージ・マハルのことを習ったその日の晩に、沼の沢の六部にタージ・
 マハルが建っている夢を見たそうです。 なぜほとんど行ったこともない場所にそんなものが建っている
 夢を見たのか今もってわからん、と笑っていましたが、それはそれは克明で鮮やかな夢だったそうです。

 昭和真ん中生まれの私は私で、「移動郵便局車」・・こんなもの、図鑑でしか見たことありませんが・・
 の中に乗ったとたん駐車ブレーキが外れて坂道を後ろ向きに滑り落ち、滝の上の「千鳥が滝」に真っ逆さ
 まに落っこちる・・・直前で目が覚めたことがあります。 やはり小さい頃の話ですが、親子揃ってまあ
 ずいぶんローカルかつ大仰な夢を見たもんです。
 
 その千鳥が滝を伯父の車で初めて見に行ったのは、小学生の3年か4年の頃だったでしょうか。 もちろ
 んこれは夢ではなく現実の記憶ですが、当時まだ夕張市内の道はまだまだ未舗装が多くて、伯父の中古の
 軽のライトバンは、紅葉山の踏切りの坂の深い砂利道を登ることができませんでした。 
 
 若い人は知らないでしょうが、当時の軽は混合燃料を使う2サイクルの空冷エンジンで、出力も十数馬力
 しかなく、タイヤも10インチの小さなものだったので、深い砂利道は苦手だったんです。 伯父は清水
 沢駅を若菜側に少し過ぎたところの右手にあったスタンドでいつもドラム缶から手動ポンプのハンドルを
 ぐるぐる回して混合燃料を入れていました。 2サイクルエンジンは独立した潤滑系統を持たないため、
 ガソリンスタンドでは予めガソリンとエンジンオイルを混ぜた「混合燃料」をドラム缶に用意していて、
 これを給油していたのです。

 石勝線ができる前は、今の紅葉山で274号線から本町方面への交差点(今はコンビニがありますよね)
 のあたりが踏切で、線路が底になるような地形は、どちら方向から走ってきても踏切の一旦停止後に必ず
 砂利の登りになるという、まあ当時の車には酷な地形になっていました。 オンボロの軽に4人乗ってい
 た私たちの車は、まず腹が地面をこすってしまう。 1人降り、2人降り、最後は3人降りて3人全員で
 車を押してようやく坂を登ることができたのですが、今では信じられないようなこんな話も、当時は何と
 も思っていませんでした。 逆にこういう経験の方が、思い出としてはずっと楽しい。

 翻って昭和の終わりあたりに生まれた私の子供は小さい頃の自分の中に、どんな夢や経験を残してくれた
 んでしょう。 親としての仕事も過ぎ去ろうとしている今、わが子の時代とわが身の時代の差に思いを馳
 せながら、父と酒を酌み交わしたのでした。



 2009年11月21日 (土)
 【 夕張40’s(フォーティーズ) その2 】
 小学校の遠足で田んぼの中の一本道を級友たちと歩いていました。 現在の十三里(とみさと)の駅の裏
 手あたりです。 当時の道路は線路をはさんで今の274号と反対の側を走っていまして、駅のシェルター
 などもなく、ほんとにのどかな田んぼの中でした。 もちろん未舗装で、車なんぞめったに来ません。

 さてとにかくその辺りで、私の前を歩く友人が「眩暈がする」と言い出しまして、ほかの何人かも自分も
 眩暈がする、と同調するのです。 その日は快晴でしたので、先生も日射病を警戒し、水を飲み少し休憩
 をとってから目的地まで向かいました。 その後は何もなく、そのまま無事に学校まで帰ってきたのです
 が、そこで初めて眩暈の原因が明らかになりました。 「十勝沖地震」だったのです。

 あとになって先生が「田んぼの水が動いているように見えたが、水の出口はせき止めてあるのにどこに流
 れているのだろうと不思議に思った」とおっしゃっていました。 建築物も、揺れて音を立てる物もない
 田舎道では、学校の壁に亀裂が入るほどの強い地震もさほどには感じられなかったのですね。

 当時の遠足の行程を、自分で車を運転するようになってから走ってみたら、片道9.5kmもありました。
 わが子の「遠足」なんぞはみんなバス移動(もはや遠「足」じゃなかろうに・・)でしたから、あの頃の
 小学生はけっこうハードなことをしていたもんです。 

 十勝沖地震は、その日の夜にも強い余震がありました。 父は、母も祖母(父の母)も当然私も、みんな
 置き去りにして自分だけ家の外に逃げ、地震のあと家族から総攻撃されました。  思い起こせば我が家
 における父親の権威の失墜は、この日を境に始まったのかもしれません。



 2009年11月19日 (木)
 【 夕張40’s(フォーティーズ) その1 】
 英語で40'sは西暦の1940年代のことですが、ここは和風に「昭和40年」代の夕張の記憶であります。
 年齢的に私が一番良く覚えているのはこの時代の夕張で
、もう閉山が始まり人口のピークは過ぎた頃でし
 たが、今にして思えばそれでもまだまだ勢いがあった時代でした。 思い出すことができる光景はこの頃
 のものが一番多い気がします。

 小学校では4年生と5年生は日帰りの「見学旅行」がありました。 4年の見学旅行だけは市内を巡って
 歩くことになっていて、市役所、警察署、市場などを見ました。 もちろん建物はどれも現在のものでは
 なく、以前の旧いものです。 

 見学旅行の日は強い雨で、そういえば夕鉄バスの観光用の車体(全席前向きの座席配置の車)にはこの時
 初めて乗った気がします。 市役所では市議会の議場を見学しまして、ベルベット(だったように思う)
 の椅子が立派でした。 警察署は、見学したはずですが中の記憶がさっぱりありません。 市場は当時ま
 だ鹿の谷で、小学生の目にはずいぶん広く映りましたが、北高に入り毎日市場(もう移転していたけど)
 のわきを通るようになった時には、こんなに小さかったっけ、と思いました。 最後にシューパロ湖を見
 て帰ってきたのですが、考えてみれば数年後に新しいダムが完成すれば、あの日に見た全ての景色がもう
 記憶の中に残るだけになってしまうのですね。 

 5年生の見学旅行は札幌周辺で、サッポロビールの工場(現ビール園)に、円山動物園、千歳の鮭鱒ふ化
 場など、今でもみんな残っていますから、夕張に何も残っていないのは何ともせつないところです。



 2009年11月16日 (月)


 【 ミスマッチ? 】
 私は麺類なら断然そば党です。 そば・うどん・ラーメンと並んでいたら、普段は間違いなくそばを選ぶ
 でしょう。 前にも書きましたが、年越しそばに至っては毎年必ず自分で打つくらいですから、かなりの
 そば好きではないかと自負しています。

 そんな私ですが、自宅から車で少しの距離にあるラーメン屋さんだけは最近行くようになりました。
 知人の「あそこはおいしいと思うよ」という情報がきっかけで、たまにはいいか、と行ってみたんです。
 最近ありがちな豚骨のこってりしたスープなんか出された日には、たいてい油に負けて胃の具合が悪くな
 るのですが、ここの店のは豚骨も控えめに使いつつ昆布主体の和風スープ。  これが変に磯臭くなく、
 具も過剰に色々と乗っておらずで、とてもいい。 特に醤油ラーメンは気に入ってます。
 (意見にも味覚にも個人差があります、念のため・・・。)

 実はこの店にはラーメン自体の味の他に、もうひとつ気に入っている点があります。 それは店で流れて
 いるBGMがずっとサイモン&ガーファンクルだということ。 最初店に行ったときに曲を聞いたときは、
 てっきり有線で偶然流れているんだと思っていたんですが、次に行った時もずっとS&Gだったので尋ね
 てみると、ご主人の趣味なんだそうです。

 ラーメンとサイモン&ガーファンクルがマッチするかは、ラーメンそのものの味の好みと一緒で、意見の
 分かれるところでしょうが、私にはちょうどいい調味料。 なんか癖になりそうです。



 2009年11月14日 (土)

千代田中バックネットの横断幕
 【 千代田中閉校式  】
 先週の緑陽中に続き、今日は千代田中学校の閉校式の日です。 
 千代田中学校は昭和24年に若菜中と鹿の谷中が合併し、翌25年改名して誕生しました。ですから来年
 は現校名になってちょうど60年目の年にあたります。

 校舎は火災で昭和46年(札幌オリンピックの前年ですね)に建て替わりました。 旧校舎の方を懐かし
 く思い出される方もおいででしょう。 もちろん学校は3月まで普通どおり授業がありますから、実際に
 無くなるのは来年ですが、今日を迎えた卒業生のみなさんのため息が聞こえてきそうな気がします。

 中学のころ炭鉱病院に入院したことがあるのですが、隣のベッドは千代田中の生徒だったことをふと思い
 出しました。 きっと彼もどこかで母校閉校のニュースを聞いていることでしょう。  母校が無くなる
 寂しさを夕張の子供たちに味わってもらいたくなかったなあ・・・。 ほんと、そう思ってます。



 2009年11月12日 (木)
 【 クラス会 】
 父が近郊の温泉で行われる向陽中のクラス会に行きました。 同級生とのクラス会ではなく、教師として
 担任をしていたクラスの会だそうです。 かつての生徒のみなさんには毎度クラス会のお誘いを断り続け
 申し訳ないのですが、今回は二クラス合同の会でもう一つのクラスの担任の先生が出席されるとあって、
 さすがに出不精の父も気がとがめたようです。 まあ出席させていただくのが当然だと思いますが。 
 
 生徒といっても、私より一回り以上年長の方々なので、たぶん大半のかたはリタイアされている世代だと
 思うのですが、そこはそれクラス会の魔法といいますか、あっという間に学生服に戻れるのが不思議なと
 ころですよね。 みなさん、今晩はダメダメ教師(今日だって洗面道具やら薬やら一切が入ったカバンを
 忘れて出かけ、家内と車で追いかけるはめに・・・)を肴に盛り上がってくださいませ。



 2009年11月9日 (月)

タイヤの回転方向を示す矢印
 【 冬支度 】
 初雪も降ったことですしちょうど天気も良かったので、日曜にタイヤの交換を済ませました。  考えて
 みれば我が家の冬支度は、網戸をしまうのと、このタイヤの交換くらい。 北海道の冬支度もずいぶんと
 お気楽になったもんだと思います。 タイヤといえば、スタッドレスが普及した15年ほど前頃から以降、
 急激にユニ・ディレクショナル(回転方向が決められている)のタイヤが増えましたね。 何シーズンか
 使っているうちに間違って取り付けちゃう場合もあるので、みなさん是非ご確認を。

 昔は今頃になると、炭小屋(たんごや)に石炭を運び込み、薪割りをし、窓にビニールを貼り・・・色々
 とやらなければなりませんでした。 確かにそういう面倒はなくなりましたが、代わりに季節ごとの風物
 も失われた気がしないでもありません。  そもそもこの半世紀でシーズン最初の冬日(一日の最低気温
 が氷点下になる日)の到来が20日以上遅くなったそうで、冬そのものがやって来なくなりました。 
 温暖化が実感されてちょっと不気味、楽な冬もあんまり喜んでばかりもいられないようで・・・。



 2009年11月7日 (土)
 【 緑陽中閉校式 】
 今日は緑陽中学校の閉校式の日です。  何度も書きましたが、私自身は前身である向陽中学校の卒業生
 ですので、ほぼ向陽と同じ場所に建ち、同じグラウンドを使う緑陽中の閉校は一段と寂しい気分にさせら
 れます。
 
 現校舎の建つあたりは、向陽中時代は野球部のグラウンドで、今の体育館の裏手にかつてはバックネット
 がありました。 バックネットの向こうには数本のクヌギの木があって夏には大きなクワガタが取れたも
 のです。 砂地のグラウンドは水はけがよく、強い雨が降ってもすぐに雨水がなくなりました。

 今夏、グラウンドを訪れたときには、その砂地だったグラウンドの半分以上が雑草に覆われていました。
 現緑小学校との共用のグラウンドですが、遊ぶ子供たちの姿もなかったので、雑草の伸びるテンポに遊ぶ
 子供の数が追いつかないのでしょう。  中学校がなくなれば、グラウンドの残り半分もすぐに草に覆わ
 れるのでしょうね。  地域の斜陽化に拍車がかかるようで、本当に残念です。 



 2009年11月2日 (月)

家内撮影の今日の初雪
 【 今日から昭和 】
 今日は寒いなと思っていたら、とうとう初雪が降りました。 これからまた数カ月、冬が続くのかと思う
 と気が滅入ります。
 
 さて、本日このHPのアクセス数が24440を越しました。  24440というのは、夕張市の平成
 元年の人口です。 前にも書きましたが、アクセス数の次の達成目標は、昭和35年に記録した夕張市の
 最大人口:116908ですから、まだ29年分遡らなければなりませんが、一応今日から昭和の人口に
 なることになります。 だから何だ、という話ですけど。

 今月はとうとう中学校2校の閉校式。  せめて数字の上くらい昭和の活気を取り戻しだ気分になっても
 罰は当たらないですよね。



 2009年11月1日 (日)

      今日の街路の紅葉
 【 11月の雨 】
 今日から11月。 10月は天候不順なひと月でしたが今月はどうでしょう。 今もかすかに屋根を打つ
 雨の音が聞こえています。
 
 これが「12月の雨」なら荒井(松任谷)由美さんの軽快なビートの曲なのですが、「11月の雨」とな
 ると少しばかり陰気です。 合唱組曲「雨」は多田武彦さん作曲の有名な曲で、私も学生時代に歌ったこ
 とがありますが、「十一月にふる雨」はその中の一曲で堀口大學の詩によります。


 「十一月にふる雨」  詩:堀口大學 曲:多田武彦

   十一月はうら悲し 世界を濡らし雨が降る
    十一月に降る雨は 暁来れどなおやまず

   初冬の皮膚に降る雨の 真実冷たい悲しさよ
    されば木の葉も堪えもせで 鶫(つぐみ) 鶉(うずら)も身震いす

   十一月に降る雨は 夕暮れ来れどなおやまず
    されば乞食の憩うべき ベンチもあらぬ悲しさよ
   
   十一月に降る雨に 世界一列ぬれにけり
    翁(おう)の宮居(みやい)もぬれにけり 非人の小屋もぬれにけり

   十一月に降る雨は 夜来たれどもなおやまず
    逢引の雅男(みやびおとこ)もぬれにけり 雅女もぬれそぼちけり


 完全失業率も有効求人倍率も僅かに改善されたそうですが、30数年前の古い楽譜を引張り出し、改めて
 この詩を見ると、何だか今の世情を映し出しているようで哀しい。 「月が明ける」でも「年が改まる」
 でもいい、とにかく「転機」が早く訪れて世の中が明るくなってくれるといいですね。








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