音風景・夕張

ユーパロ谷 気まぐれ日記


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2009年12月


 2009年12月29日 (火)
 【 Arrivederci,Au revoir,Adios,Auf Wiedersehen,Good-by,さよなら 2009 】
 あっという間に今年もまもなく終わります。

 『 あたらしき 背広など着て 旅をせむ しかく今年も 思ひ過ぎたる 』
 
 みなさんご存知の啄木の有名な歌ですが、振り返れば結局無為徒食に終わったこの一年。  毎回
 年初に思う志だけは高いんだけどなあ。(← 泣き言以外の何物でもない・・・。)

 それはともかく。

 改めましてこの一年、当HPをご覧いただいたことにお礼申しあげ、新しい年がみなさんにより良い
 年でありますようお祈りして、年末のご挨拶とさせていただきます。

 
アリベデルチ(伊)、オルヴォワール(仏)、アディオス(西)、アオフヴィーダーゼーエン(独)、グッバイ(英)、
 そしてさよなら2009年。  みなさん、どうかよいお年を!!!



 2009年12月27日 (日)

 【 雪の帰省 】
 昨夜子供が東京から帰省。 仕事を終えてからのAir-DOの最終便
 だったのですが、千歳空港は断続的な大雪のために2本ある滑走
 路を片方ずつ除雪しながら運航しなければならず大混乱。 家に
 帰って来たのは午前2時半過ぎでした。 まあ東京に戻った便も
 あったようですし、空港に泊まり込んだ人が500人もいたそうです
 から、帰り着いただけマシかもしれません。
 
 JRも臨時便の快速エアポートを出したのですが、23:35発のこ
 の列車にも間に合わず、結局航空会社がチャーターした臨時のバ
 スで帰ってきたとのこと。 バスは長蛇の列でこれを待っている
 間が寒くて一番大変だったようです。
 
 飛行機の時刻表は細かく見ていると、けっこう色々なことが判る
 もので、特にAir-DOのように路線が単純なところは、往復で機体
 を使っているので、前の便の着陸が遅れたり欠航した時点でその
 帰りの便の遅延・欠航が決まりますから、だいたい予想はつきま
 す。 今回も遅延の程度やゲートの変更まで予想して子供の携帯
 へ伝え、みごと的中させて「あなたは何者?」と言われました。
 父親としてはちょっと自慢です。

 ついでに普段なかなかボーディングブリッジを利用させてもらえ
 ないAir-DOですが、こういう時はブリッジの空きを待たなくても
 いい、というメリットがありまして、右の昨日の発着表でも最終
 のAir-DO便(便名4桁がAir-DOとの共同運航便)は、その前のANA
 単独運航便を追い越して早く着陸しています。 何が幸いするか
 わからないもんです。

 普通なら1時間半で帰って来られる東京ですが、こういうときは
 まさに「海外」、冬の北海道、やっぱりなめちゃイカんですねえ。



 2009年12月24日 (木)

 【 聖夜 】
 子供が就職し、結婚以来20数年ぶりに夫婦二人だけのクリスマスになりました。 妙に静かです。
 
 まあ本来クリスマスは静かに過ごすはずの日なので、これでいいのかも知れません。

 ギャグで「恋人がサンタクロース♪ 
手の早いサンタクロース♪」(もちろん"背の高い"が正解)
 と歌われる松任谷由美のあの歌を、昔から本当に「手の早い」だと思い込んでいたという信じがたい
 感性の家内とふたり、静か(?)に聖夜を迎えることにいたしましょう・・・・。



 2009年12月22日 (火)

本文とは関係ないですが今シーズン初登場の除雪車。
夜中に通学路の歩道除雪をやってました。
やっぱり雪のないクリスマス、とはいかないようで・・。
 【 小さな工夫 】
 最近友人からこのHPについて聞かれました。「ところでさ、ページ左上の小さな字は
 何の意味?」
 
 うーむ、よく見ている人もいるもんだ。 そう、トップページをよ~く見ると、左上に
 濃いグレーの小さな文字で、「音風景・夕張 ≪生まれ育った夕張の風景を音楽にして
 みました。≫ 」と書いてあるんですね。 

 実はこれ、検索エンジンを意識して載せてあるんです。 この10月にトップページの
 デザインを変更してスライドショーを入れた際に、ページ・タイトルもスライドショー
 に組み込みました。 全部で18枚あるスライドを6枚ずつ3グループに分け、間に

 イトル文字が入る構成になっていますが、当然タイトル文字もテキストでなく、JPG
 ファイル化しました。 つまり現在のタイトルは文字でなく写真なんですね。ですから
 もしかすると google や yahoo の検索にタイトルが引っかからないのじゃないか、と
 心配になったんです。

 そこで、目立たないように「文字」でタイトルを入れることにしました。あくまで視覚
 的にはスライドショーのタイトルが主ですが、検索エンジンに対しては、こちらが主タ
 イトルというわけです。そのせいかどうかは定かでありませんが、主要な検索エンジン
 では「音風景・夕張」でちゃんと検索
 にかかるようです。 こういう小細工、面倒といえば面倒ですが、けっこう楽しんでい
 ます、私の場合。



 2009年12月19日 (土)
 【 夕張40’s(フォーティーズ) その6 】
 北高に通学していた3年間は、隧南(清水沢~鹿の谷間にある国鉄夕張線のトンネルより南の地区)
 育ちの私には行動半径を一気に広げる機会になりました。 なにしろ同じ夕張に住みながら、日常会
 話で本町界隈に行くことだけを「夕張に行く」と言っていたくらい、同じ町という感覚が希薄だった
 ので、徒歩で本町まで行ける学校に通った毎日は大げさに言えば世界が広がった気がしました。
 
 北高の入学試験は「ひまわり」として残っている鉄筋の現在の校舎ではなく、木造の旧校舎の3年生
 の教室で受けました。 教室の床に置いたバレーボールが、窓際に向かって転がっていくほどボロい
 建物で、生徒数の増加に合わせ建て増しを繰り返したために体育館を中心に幾つもの棟が伸びた判り
 にくい代物でした。 生徒の通用口も体育館にあったんです。

 これまた木造の体育館は天窓の窓ガラスがところどころ破れてそこからハトが出入りしていて、入学
 式の最中も梁にとまったハトがフンを落として大騒ぎになりました。 冬は体育館の中に積雪(!)
 しまして、体育で柔道をやるときはまず雪かきと竹箒で床の除雪をし、積んであった畳の雪を払い落
 としてから畳を敷きました。 もちろん暖房など全くなし。 それでもパンツの上に柔道着を着ただ
 けで授業をしていたわけで、今よりはだいぶハードな環境だったと思います。 投げる方も受け身を
 する方も下手で、私も友人に投げ技をかけて彼の首を痛めてしまい、本町の桑島整形外科に何カ月も
 通わせましたが、寒さで体が固くなっていたせいも少しはあったのじゃ、と弁解をしておきましょう。

 渡り廊下の途中にあった理科準備室では理科系の先生たちがカラスを餌付けしていて、確かクロとか
 名前までつけていたと思うのですが、今考えればずっと世間の気持ちに余裕があった気がします。
 チョロ、はんにゃ、ジオイド、フトミミズ・・・みんな当時の先生に献上していた渾名ですが、個性
 的な先生もたくさんいらっしゃったし、それが許された時代でもありました。

 学校の下(他の町の人に「学校に地下があるのか」と言われましたが、もちろん「坂の下」という意
 味です。)には「茶楽」という食堂がありまして、ここにはずいぶんお世話になりました。 クラブ
 の夏休みの練習のときなんか毎日行っていました。 今でも「茶楽」のジャンボ焼きそばを懐かしく
 思い出すことがあります。  残念ながらかなり前に火事で無くなったと聞きましたが。 
 
 学校帰りに本町まで友人たちと歩いて行っては、梅が枝通りの商工会議所の向かいにあった「木馬」
 という喫茶店に行きました。 コーヒー一杯で何時間も居座ったので、店にしてみれば迷惑至極な話
 だったでしょうが、時には熱い議論をしたりして、それなりに青春していました。  帰りは夕張駅
 ・・・このHPのトップページのスライドショーの最初の写真にある旧夕張駅ですが・・・まで歩い
 て列車で帰りました。  鹿の谷までの定期券は持っているので、1区間だけ買えば帰れて、それが
 確か40円だったと思うのですが、木馬でコーヒー代を払ったときに財布の残金を勘違いしていて、
 切符を買おうとしたら35円しか残っておらず、鹿の谷まで歩いたこともあります。 当時はそんな
 ときでも別に辛いとは思いませんでしたね。

 我々汽車通組は月の定期代も安かったですが、大変だったのは鹿島から三菱バスで通学していた連中
 で、昭和40年代後半のこの頃で、月に16000円ちょっとかかっていたはずです。 道立高校の
 授業料が月3300円の時代でしたから、通学費のほうがずっと高いですよね。


 誰にとってもそうでしょうが中学あるいは高校の3年間は、大人になってからの10年分くらいには
 相当するんじゃないでしょうか。 それくらい人間のベースの部分に影響する時間だと思うのですが
 そういう意味では、この頃の友人や、夕張という町全体が今の自分を作ったんだよなあ、などと最近
 になって感じることしきりです。



 2009年12月15日 (火)

映画「鉄道員(ぽっぽや)」のような1コマ










たったこれだけしか便数が・・・

 【 夕張40’s(フォーティーズ) その5 】
 昭和40年代の前半、夕張には5つの旅客鉄道路線がありました。 国鉄が夕張線と登川支線の2系
 統、あとは私鉄である夕張鉄道、三菱鉱業大夕張鉄道、北海道炭鉱汽船真谷地線の5路線です。

 私は一応どの路線にも一度は乗ったことがあるようです。 「ようです」と書いたのは、夕鉄だけは
 私がけっこう大きくなるまで残っていたにも拘らず小さい頃に一度だけしか乗る機会がなく、私自身
 には記憶がないからです。 母に乗った話を聞いただけなんですね。 ですからよく話題に上る有名
 なスイッチバックや錦沢も、後年サイクリングロードになってからの姿しか知りません。

 三菱の鉄道には2回だけ乗りました。 いずれも真夏でしたので、この鉄道の思い出は真夏の暑さと
 セットになっていて、開け放った窓から流れ込む夏の風と、機関車の煙の匂いは今でも忘れません。
 夕張では「~町」という地名が少ないのに、この路線では「明石町」とか「千年町」といった駅名が
 あって、ずいぶん都会っぽいなと思ったものです。 大夕張に向かうときは登り勾配で速度が出ない
 ので、右手にシューパロ湖をゆっくりと見ることができました。 まもなく新しいダムが完成すれば
 あの景色の大半が湖底に沈むのだと思うと、なんとも寂しい気がします。

 真谷地線は石炭積出し用の路線として昭和60年代まで残っていたのですが、客車は40年代前半ま
 でしかありませんでした。 客車にはダルマストーブがついていて、冬は何とも風情がありました。
 沼の沢の駅を出た直後が勾配が強くて曲率の小さいカーブなので、なかなか加速できないため、大人
 が列車の前のほうから飛び下りて小用を済ませてもう一度後部の車両に乗れるくらいでした。 真谷
 地市街の駅は、生協の前を過ぎてバス道路が少し下り坂になる左手にありました。 道路より線路が
 高くなるため、真ん中に鉄の手摺がある幅の広い階段が駅へ続いていました。 今でも痕跡があるか
 もしれません。 

 登川線は楓までしか乗ったことがありません。 私にとっては墓参りのためにしか利用しない駅でし
 たが、それでも小学生くらいのうちは毎年一度は必ず乗る路線でした。 現在の274号線はまだな
 かったので、駅の背後は山が迫ってきていた印象があります。 現在は紅葉山(新夕張)を出てすぐ
 にトンネルで、それこそ楓のお墓のすぐ下に一気に出てしまいますが、当時は沢をいくつも越えなが
 らずいぶん長い距離を走っていたように感じてました。 実は私の父方の祖父は戦時中登川の駅長を
 していまして、父が懐かしがるので5年ほど前に登川駅を訪ねてみたのですが、人の背丈より高い草
 に阻まれ200mほど手前までしか行けませんでした。  1990年代前半までは、駅横の小さな橋も
 ちゃんと残っていたのですが、今はすっかり山に帰っているようです。 

 国鉄の夕張線本線はやはり最も利用した路線です。 小さい頃札幌に出るのもほとんど列車でした。
 朝は札幌まで直通の準急(準急行)、帰りも夕張まで直通の準急がちゃんとあって、乗り物酔いしや
 すい母は好んでこれに乗りました。  北高時代の通学も鹿の谷まで毎日列車を利用していました。
 現代の都市近郊の駅なら列車は停車位置が厳密に決まっていて、乗車位置で待っていれば、正確に目
 の前でドアが開きますが当時はいい加減でしたから、せっかく整列して待っていても全然違う場所に
 停車したりして、毎朝大騒ぎでした。 それでも誰も文句など言いませんでしたけれど。
  当時の国鉄は国労だか動労だか、とにかく組合活動が盛んで、春闘の時期など毎年ストライキがあ
 りまして、ひどい時は2日間くらい完全に列車が止まりました。  機関車にも気動車にもペンキで
 組合の支部名やら檄文やらを大きく書いたり、今ではとても考えられない時代でした。 
  大雪の日には、朝の通学列車が鹿の谷に向かう途中で、登り勾配と雪の抵抗に負けて引き返したこ
 ともありました。 公然と朝の授業がサボれるので、こっちは逆に嬉しかったんですけどね。 
 そうそう、昭和40年代末ごろの南清水沢駅は当時全国でも珍しい職員が女性ばかりの駅で、テレビ
 で何回か取り上げられていましたっけ。 駅のおねーさんたち、今はどうされているのでしょうか。


 昨年お盆に「おーやま」で食事したついでに沼の沢駅の発車時刻表を見ました。 無人になった駅も
 本数の激減したダイヤも、見ていて哀しくなりました。 今やJR「夕張線」そのものが、石勝線の
 「支線」なんですね。  祖父がもし生きていたら、きっと泣くだろうなあ・・・・・。



 2009年12月11日 (金)


で、結局仏滅に飾ったツリー
 【 信仰の自由 】
 「そろそろツリー(クリスマス・ツリー)を出さなくちゃね。」と言いつつカレンダーを見る家内。
 
 「やめとこうかな。  今日
仏滅だし。」  ・・・・ 。

 アンタ、おもしろ過ぎ。 
 そりゃあ何をどう信じようと自由だけど、あんまりCrossOverしてんじゃありませんか??

 確かに秋からこっちだけでも、彼岸の中日に「おはぎ」を食べ、クリスマスケーキにローソクを立て
 年が明けると神社に初詣に行くんだから、日本人ってのは大概が信仰に鷹揚(いいかげんとも言う)
 なんだけどさ。 まあそれであなたの心の平安が保てるんなら、別に文句はありませんです、はい。



 2009年12月10日 (木)
 【 冬来たりなば 】
 前にも書いたかもしれませんが、理系人間の私は理科年表が愛読書のひとつで、いつも手元に置いて
 あります。 特に良く見るのは気象や暦についてで、折々に見るとまた新しい発見があるものです。
 もっとも家内には(たぶん多くの人にも・・・)この楽しさ、理解してもらえないようですが。

 その理科年表の「暦」の部に書いてあることをちょっと引用しますと、

 22日の冬至まではまだ12日ありますが、今日の日の入りの時刻は札幌で16:00。 実は日没の
 時刻が一番早いのは冬至の日でなく今頃なんです。  12月5日~14日までは16:00、15日
 には1分遅くなり16:01、冬至の22日には16:03と今より日没は3分遅くなります。 逆に
 日の出が最も遅くなるのは、冬至を過ぎたあとの31日~年明け1月7日の間で7:06。  冬至は
 この差し引きで一番「昼が短くなる日」というわけなんですね。

 日常生活では日の出より日没を目にする人が多いでしょうから、体感的には日没が遅くなるほうが、
 日が長くなる実感が湧こうというもの。 本格的な冬もこれからという今頃に言うのもなんですが、
 あと5日もすれば、天の暦はもう春に向かって動き始めるわけですね。 冬来たりなば春遠からじ、
 とは良く言ったもので、こう思えば少しはこれから冬を迎える重い気分も晴れようというものです。



 2009年12月 8日 (火)
 【 Pearl Harbor 】
 今日12月8日は言うまでもなく日本がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった日です。
 
 真珠湾には私も一度だけ行ったことがあります。 1400名以上が亡くなった戦艦アリゾナの上に
 建つ記念館も見てきました。 ガイドさんに「ここではあまりふざけた態度を取らないように」、と
 念を押されましたが、アメリカ人にとっては今も忘れることのできない場所であることは確かです。

 ただその「忘れられない」の質が、多くのアメリカ人にとってどういうものかは気になります。

 何年か前に公開された映画「パール・ハーバー」は、単純にアクション映画としてだけみれば、派手
 な爆破シーンと水戸黄門的な正義感に満ちたストーリーで楽しめないこともないですし、準主役とも
 いえるケイト・ベッキンセールはそりゃあもう理知的(実際にも高学歴)な美人だけれど、日本人の
 私たちが見ると「これは史実に沿っているのか」と思うシーンも多い。 例えば日本は民間人の歩く
 街路を機銃掃射したり病院を爆撃したりしたんだろうか、と思うんですね。  娯楽映画だと笑って
 済ませられない気がしてなりません。 いくら娯楽映画といっても、アメリカ=善/日本=悪という
 単純な図式は真珠湾の憎しみを徒(いたずら)に扇動しているようでやりきれないんです。
 もちろん真珠湾攻撃を正当化するつもりもありませんが。

 つい先日、遅ればせながらDVDで「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作を見ました。
 こちらはこれがアメリカ映画であることを忘れるような内容で、あまりストーリーを書くのもなんで
 すが、「父親たちの星条旗」ば硫黄島の戦いで軍費調達のPRのためにヒーローに祭り上げられてし
 まった男たちの戦後を描いた話です。 イーストウッド監督があの戦争をこういう風に捉えているこ
 とに何より感銘させられる映画でした。 
 
 実際の戦争は、決して本物の英雄や美談を生みません。 日本でもアメリカでも、ほかのどこの国で
 も、戦争にあるのは悲劇だけです。 願わくば「Remenber Pearl Harbor.」が復讐の合言葉でなく、
 不戦の誓いとして後世に語り継がれることを祈りたいと思います。



 2009年12月 6日 (日)
 【 アメリカの歌 】
 テレビ番組で安売り競争に取り組むスーパーの社内を取材していました。
 セリで売れ残った商品を狙って仕入れたり余分な照明を取り外したりという節約術とともに、社員に
 対しては徹底した成果主義で臨み、少しでも成果を上げられないとダイレクトに収入に反映されるの
 だそうです。 この会社に限らず現代はどこも厳しい能力・成果主義の社会になってしまいました。

 私がよく話題に出す「サイモン&ガーファンクル」のポール・サイモンがソロになってからの曲に、
 「アメリカの歌」(原題は"American tune")というのがあります。 1973年リリースのアルバム
 「ひとりごと」に収められたこの曲はこういう歌詞で結ばれています。

   We come on the ship they call the Mayflower
   We come on the ship that sailed the moon
   We come in the ages most uncertain hour
   And sing an American tune
   Ohh, and it's all right, it's all right
   You can't be forever blessed
   Still, tomorrow's going to be another working day
   I'm trying to get some rest
   That's all I'm trying to get some rest
 
 70年代にありがちな観念的な部分もある歌詞ですが、私なりに対訳してみますと、

   私たちはメイフラワーという名の船に乗り
   月へ航海する船に乗り
   この最も不確実な時代へとやってきて
   そうしてアメリカ(を讃える)の歌を歌っている
   でもそれはいいさ まあいいさ
   永遠に(アメリカを)讃えてばかりはいられないのだから
   それでもまだ、明日がまた新たな労働の日だというなら
   いま少しだけ休ませてくれないか
   いまほんの少しだけ休みたい、私が望むのはそれだけなんだ

 今から36年前にして、アメリカ社会は既に疲弊していたんだろうか、と思ってしまう歌詞ですね。

 日本は欧米に追いつけ追い越せで進んできたけれど、「Japan as No1」という本がかつて売れたく
 らい驚異的な発展を遂げた理由は、たとえば終身雇用制のように、日本自身が欧米的合理主義の名の
 下に切り捨ててしまったものの中にあったような気がしてならないのです。 
 
 年間自殺者3万人という現代の日本。 「少しだけでいいから立ち止まって休ませてくれよ」と歌う
 この歌は、いまや「ニッポンの歌」なのかもしれません。



 2009年12月 4日 (金)

本文と関係ありませんが、最近買ったCD。
30年以上前に買ったレコードのCD版を探し
ていて、やっと輸入盤を見つけました。
メイナード・ファーガソンの「M.F.HORN2」。
「Hey Jude」 は録音悪いけど、スゴイ・・・。
 【 夕張40’s(フォーティーズ) その4 】
 今年の北海道は本格的な冬が例年より遅れ気味のようですが、それでも外は少しずつ雪景色になりつ
 つあるようです。 

 夕張は傾斜地ばかりですから、スケートよりはスキーが盛んだったように思います。  スケートも
 町内会や消防団の人たちがボランティア(なんて単語、当時はありませんでしたが)で、学校のグラ
 ウンドにリンクを作ってくれたりして滑ってはいましたが、なにしろスキーなら手間暇かけなくても
 そこらへん中が天然のゲレンデですから、やっぱり盛んだったのはこちらでしょう。

 ですから、今のようにスキー場に行くなどということは当時は考えもしませんでした。 そこいらの
 土手や手ごろな傾斜の畑で滑っていたわけで、リフトなんかありません。  北高の裏手のほうには
 「市民スキー場」があって、ここにはリフト(といっても腰の高さくらいに張ったケーブルに自分で
 つかまって引きずり上げてもらう方式)があったのですが、私たちにとっては高級リゾート地並みに
 近寄りがたい贅沢な場所、スキーとは滑るものではなく、大半は登るものだと思ってました。

 畑や野山で滑っていますので、笹が輪になっているところに足を引っけて怪我をしたり、ついてない
 奴は肥溜めの中にとっぷんと・・・しちゃったりして、まあ今よりずっとスリルに満ちていました。
 私の世代はビンディングは「カンダハ」、板は木製でエッジなんかありませんから、締まった雪の上
 なんか曲がりゃしない。 ワックスも無いから、ロウソク塗ってましたしね。

 中学三年のとき、初めてエッジのついたスキーを買ってもらいました。 確か「アジアスキー」って
 いうメーカーのやつだったと思いますが、清水沢の「十字屋」まで行って選んだ記憶があります。
 乗ったバスがすごく混んで、荷物が増えた帰りは大変でしたが、今となってはあの混雑が懐かしく
 思い出されます。今年もMt.レースイは営業を始めたようですが、最近招致に力を入れているのは、
 中国からのスキーヤーだそうで・・・ほんと、時代は変わったもんです。



 2009年12月 1日 (火)

GT」でなく「ST」というのがまた渋い
レザートップなんて長いこと見てないなあ。
 【 夢みる時代。 】
 今日から師走です。 この頃は、時間軸が対数目盛りになってるんじゃないかというくらい、一年の
 体感長さが毎年毎年短くなっていく気がします。

 昨日は大安だったのですが、家内が街中に買い物に出たときに通った宝くじ売り場の前は、長蛇の列
 だったそうです。 確かに宝くじが当たる夢でも見ていないとやってられない、って世相ですよね。
 

 師走とは何の関係もありませんが、先日、某大型電気店の駐車場で懐かしい車が隣に駐まっていまし
 た。 昭和45年に発売された初代のトヨタ・セリカです。 それも昭和40年代前半に流行した、
 レザートップ(ビニールレザーを張った屋根)の車。 そういえば小学校の担任の先生のカローラも
 このレザートップだったっけ。 今にして思えば、レザートップなんて全く実利のない装飾に過ぎな
 いのですが、それだけ夢みる無駄が許された時代とも思えます。 あの頃と今、一体どっちが本当に
 豊かな時代なんでしょう。 なんだか判らない気がしてくるのでした。
 






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