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2011年 3月


 2011年 3月28日 (月)
 【 球春 】
 春の甲子園が始まっています。 震災で被害を受けた宮城県からは東北高校(日ハム・ダルビッシュの母校)が代表として出場
 していました。 今日はその東北高校が1回戦に臨みましたが、残念ながら敗退してしまいました。

 だいぶ前のリリースですが、さだまさしさんのアルバム「風のおもかげ」の中に「甲子園」という曲があります。 夏の甲子園
 を歌ったこの曲は、2番の歌詞がとても印象的です。

   3千幾つの参加チームの中で  たったの一度も負けないチームはひとつだけ
    でも多分君は知ってる敗れて消えたチームも 負けた回数はたったの一度だけだって事をね

 悲しいかな甲子園はトーナメント戦なので、一回負けるとそれでお終いですが、世の中大半はそうじゃありません。人生なんて
 開催期間80年の総当たり戦、負けが込むこともありますが勝つこともあって勝負は最後まで分かりません。 東北高校も被災
 した東北の方々にも大逆転の日が必ず来る。 そう信じながら甲子園の中継に見入ったのでした。



 2011年 3月25日 (金)
 【 春は別れの季節 】
 昨年10月にすでに合同閉校式を済ませている夕張の各小学校ですが、昨日の24日が三学期の修了式で、ついに本当の閉校の
 日を迎えることになりました。 おりしも新聞には公立学校の教職員の人事異動が発表になっていまして、清水沢小以外の大半
 の先生方も夕張を去られるようです。

 卒業や転勤、春は別れの季節でもありますが、閉校を伴う今年はまた格別の寂しさがあるように思えます。

 ところで夕張にある閉校になった空き校舎、東北の震災の避難場所に利用できないものでしょうか。 どこかの自治体が役場を
 閉校になった校舎に移したというニュースも聞きました。 これからは気温も高くなるので、過ごしやすくなります。 使い方
 によっては役にたちそうな気もするのですけれど、いかがなものでしょう。



 2011年 3月20日 (日)


根性を出して朝4:00に撮ったExtreme Super Moon。

月は「ウサギが餅をつくところ」というような、穏やかな
気持ちで見上げたいもんです。
 【 狂気 】
 今日3月20日午前4:09、地球と月は19年ぶりに近づきました。 その距離
 35万6577km、一般に言う38万kmという距離よりずいぶん近くなります。
 太陽と月と地球が一直線になる状態をSuper Moonというのだそうですが、今回はこれ
 に更に月の近日点が重なるExtreme Super Moon といって19年ぶりなんだそうで。
 何でも月が一番遠い時と較べて14%も大きく見え、30%も明るいらしいですよ。

 物好きな私は根性で目覚ましをかけ、写真を撮ってみました。それが右の写真です。
 機材も腕も大したことは無いので、今ひとつクリアな写真が撮れませんでしたし、
 残念ながら見ていて特に「大きい」とも思えませんでした。 ただ潮位変化はもの
 すごく大きくなるんだそうで、地球の重力にも影響が大きいそうです。  今回の
 震災の原因のプレートの跳ね上がりにも月の重力は影響していないのかな、などと
 思ったりもしています。

 Lunaはギリシャ神話の月の女神ですが、英語でLunaticといいますと「狂気の」とか
 「精神異常の」という意味になります。 殺人事件も新月や満月の時が多いという
 話を聞いたこともあります。 狼男の例を引き合いに出すまでもなく、昔から人々
 は月が人々の心の中に狂気を呼び起こすと考えていたのかもしれません。

 その月が最大になる時刻に合わせたかのように、今日未明フランス軍を先頭に国連
 の決議によるリビア攻撃が始まったのは奇妙な符合というだけでしょうか。

 いったん戦争になれば、日本の震災を超える死者が出てしまうに違いありません。
 しかもこちらは天災ではないのです。 月の影響かどうかはともかく、戦争は一種
 の狂気には違いありませんよね。

 とにかくこれ以上の凶事が続かないことだけを心から祈りたいと思っています。



 2011年 3月18日 (金)

左上アンカーを黒いピンで右上のように開く。


ほとんど空になった使い捨てカイロの棚。
 【 失敗 】
 トイレの壁に絵をかけようかということになり、ハンマーで壁を叩いて下地を確認
 したのですが、ちょうど良い高さの壁には裏に柱がありません。

 そこで思い出してホームセンターで「中空アンカー」を買ってきました。樹脂製の
 アンカーが壁の向こうで開くので、額縁程度の重さなら楽に吊り下げられます。
 さあこれで問題解決、と思ったのですが・・・。

 ここで思わぬ事態が。 確かに壁のすぐ裏に密着した骨は無かったのですが、僅か
 5mmほどの隙間の向こうにまた部材があるんです。これではアンカーの傘が開く
 空間の余裕がありません。 しかも相手が板なのか柱なのかも判らないので迂闊に
 ねじを立てるわけにもいきません。 

 結局、トイレの照明器具交換のために数日後に家を建てた業者が来るので、その時
 に何とかしてもらうことになりました。 いやはや大失敗でした。

 ところでホームセンターでふと気がついて、使い捨てカイロの売り場を覗いてきた
 のですが、棚がほとんど空になっていました。 地震の影響がこんなところにまで
 出ているんですね。 我が家は買いだめはしないようにしておりますが、被災地の
 方のためにもこういう過剰反応にだけは気をつけなければなあ、と思いました。



 2011年 3月15日 (火)
 【 まずできることを 】
 新聞に夕張市が今回の震災に対し、市営住宅の提供と消防隊員の派遣を準備中であることが出ていました。併せてパン250食
 と組み立て式簡易トイレ70個も送ったそうです。 また市営住宅も15日現在で12戸が入居可能だそうです。

 支援の話で思い出すのは、夕張市が財政再建団体となったときのことです。 夕張市は災害の被災地ではありませんから食料や
 衣料品が不足していたわけではありませんが、イモや野菜が4トントラック3台分も届いたそうです。 もちろん善意で送って
 くださったのでしょうが逆に困ってしまったそうで、現地の情報は必ずしも正確に伝わらないという一例でしょう。 
 
 私も今回の惨状を目の当たりにし、何かせずにはいられない気持ちになりましたが、先の夕張の例もあり無暗に品物を送るのは
 得策と思えず、最もかさ張らず色々な役に立つもの、すなわちお金にしました。

 ゆうちょ銀行(郵便局)でも貯金窓口で義援金の送金ができます。 我が家も今日、子供を含め全員でお金を出し合って送金を
 済ませてまいりました。 後で聞けば両親もやはり郵便局から義援金を送ったようです。

 人を思う気持ちは大事ですが、災害時には気持ちだけでは人を助けられません。 大事なのは少しでも実際に行動を起こすこと
 だと思います。 東証では今日一日で1000円以上も株安になりました。 実態のない紙の上だけで金儲けをしている連中の
 日本への値踏みが下がったということでしょうが、そんな連中に目にもの見せてやりたい。不明者のご無事を心からお祈りする
 とともに、必ずや奇跡の復興が成し遂げられることを信じてやみません。



 2011年 3月14日 (月)
 【 悪夢 は続く 】
 時間の経過とともに震災の恐ろしい惨状が目の当たりになってきました。

 越前高田でしたか、市民会館の3階に避難していたにも拘わらず津波に直撃され、自分は奇跡的に助かったけれど、繋いでいた
 手を離してしまった高校生の娘の行方はわからない、と話しておられたお母さん。 お嬢さんの無事を祈るばかりですが、自分
 に置き換えてみて、もし子供に万が一のことがあれば私は一生手を離したことを悔い、自分を責め続けるだろうと思います。
 こういう悲しい話が数限りなくあるのが本当に辛いと思います。 
 
 残念ながら北海道にいると具体的にできることがありません。 せめてどこかへ募金くらいはしようと思っています。

 そうそう、東京電力は地区ごとに計画停電を行うそうですが、北海道電力では昨13日からすでに本州への電力の融通を実施し
 ているそうです。 で、私たちも節電に協力したほうがいいのかなと思ったのですが、北海道電力の広報課に電話で確認したと
 ころ、送電設備の容量から、本州へ送電可能な電力は最大でも60万kWだそうで、道内の総発電能力はこれを充分にカバーで
 きる余力があるので、特に節電は必要ないそうです。(考えることはみんな同じらしく、同様の問い合わせ電話はけっこう多い
 らしい・・。 北電は電気を売って商売しているので、必要以上に節電されると逆に困るのが本音かもしれません。) ちなみ
 に問題の福島第一原発1号機の発電能力が46万kWですから、これを補う程度の電力は北海道から送れるということですね。

 なにはともあれ、少しでも多くの人のご無事を祈りたいと思います。



 2011年 3月12日 (土)


悪夢を伝える今朝の新聞。  これ以上、被害が拡大しないことを願うばかり。

 【 悪夢 】
 東北地方太平洋沖地震(気象庁命名による)発生。 被害甚大。
 マグニチュード8.8なんて数値は聞いたこともない、と思ったら
 日本では記録にある限り最大の地震なのだそうです。

 鍵盤に向かっていた私は、疲れて目まいがしたのかと思いました。
 私は十勝沖地震の記憶もありますが、それも含めて今まで経験した
 ことのない長さで揺れが続きました。

 マグニチュードMは10^1.5Mという目盛りになっていますから
 たとえばマグニチュードが1違うと地震のエネルギーは10の1.5乗
 =31.62倍の強さになります。  先日のニュージーランドの
 地震はM6.2ですから今回の地震とはM2.6の差、エネルギーで
 いうと10^(1.5×2.6)=7943.3、つまりニュージーランド
 地震の約8000倍の強さの地震が襲いかかったことになります。

 東京や長野でも地域によっては震度6を記録しました。 幸いにも
 我が家は家族も親戚関係も無事でしたが、電話も中々つながらず、
 かなり心配しました。 ここをご覧のみなさんの中にも、ご家族や
 友人の心配をされているかたもおいででしょう。 ご無事を心から
 お祈りしたいと思います。

 今朝の北海道新聞はご覧のような紙面になってまして、私の記憶に
 ある限りTV欄も使って1面で抜いた記事は見たことがなく、被害
 の大きさを物語ります。

 福島では原子力発電所の炉心も制御困難になっていて、物が物だけ
 に心配です。 津波警報もまだ続いていますし、被害はまだ進行形
 ということですね。  ちょっとでもこの事態が軽くなればいいの
 ですが・・・・。 



 2011年 3月10日 (木)


昨年秋に撮影した緑小学校の写真。 
この日はみごとな青空だったので、緑小以外の学校の写真もきれいに撮れた。

 【 本当の閉校 】
 緑小学校(沼の沢小と真谷地西小との統合校)の教頭先生から、
 右の写真のような閉校記念の葉書を頂戴しました。 

 昨年10月に6校合同の閉校式と各校ごとの惜別の会は済んでい
 ますが、いよいと今月で本当の閉校の日がやってきます。

 実はこの葉書の写真を撮影したのは私です。 昨年6校の校歌の
 編曲をしてCD-R化するにあたり、あまり良い写真が入手でき
 なかったため、天気のいい日を狙って各校の写真を一気に撮影し
 てきたのです。 その時に緑小学校では教頭先生が写真を撮って
 いた私に声をかけて下さり校舎の中も見せて下さいました。

 そのご縁でその日に撮影した写真のデータをお送りしたところ、
 今回の葉書で使っていただくことになった、というわけです。

 頂いた葉書には「全校児童27名に閉校記念として渡しました」
 とありました。 少しでも地元の役に立てればこれに勝るものは
 ございません。
 
 夕張の各小学校は18日が卒業式、その後24日の修了式で各校
 の長い歴史に幕が降ります。 子供たちの心の中に残る学び舎の
 思い出が、いつも写真のような青空の下にあることを心から祈り
 たいと思います。



 2011年 3月8日 (火)


松田芳明 氏 「写真集 ふるさと ヤマ 真谷地」より転載させて頂いた
真谷地市街の全景。 二棟あった三区のアパートの線路側の棟の屋上
からの景色。  正確な撮影年月日は不明だが、手前に写り込んだ車の
型(330系セドリック:75~79年)と手前交差点左角の久保商店がすでに
取り壊されていること、しかし右手の線路はまだ残っていることなどから、
たぶん80年代前半の写真と思われる。(写真左奥が沼の沢方面。)
三区のアパートが取り壊された現在、このアングルから写真を撮ることは非常
に難しいので、今となっては貴重な一枚だと思う。
 【 40000 】
 さきほどこのHPのアクセス数が40000を越しました。 
 積極的にPRもせず、まめに更新もしていないようなページを 
 よく40000回も見て頂いたものだと、改めて心から感謝する
 次第でございます。

 実は40000という数字は今から30年前、1981年の夕張
 の人口に相当する数です。 1981年といえばあの新鉱の事故
 の起きた年で、夕張がまだ炭鉱復興に一縷の望みを繋いでいた頃
 でした。 

 夕張市の人口はこの2月末で10887人。前月から23人減少
 してとうとう1万8百人台になりました。 30年前の4分の1
 にまで減ったことになります。

 右の写真は真谷地市街の写真です。 真谷地地区単独での人口の
 推移の記録は見つからないのですが、支所単位つまり沼の沢地区
 と合わせた数字ですと、夕張の人口が最も増えた昭和35年には
 8000人近い人口がありました。 30年前の1981年でも
 4200人ほどです。  2月末の沼の沢・真谷地地区の人口は
 1261人ですから、こちらもこの30年間で4分の1になって
 しまったことになります。 
 
 実は私の祖父の家も右の写真の中に写っていて、私にも最盛期の
 真谷地の記憶がありますが、当時の市街にはパチンコ店や割烹風
 の飲み屋まであって人通りも多く、夏の盆踊りの時期なんかは、
 それは活気があったものでした。
 
 HPのアクセス・カウンターは増える一方ですが、夕張の人口の
 ほうを増やすのはそうとう厳しいと言わざるを得ません。 数字
 というのは残酷なもので、なかなか人間の思うようにはいかない
 ものだなあ・・・などと40000という数字でいろいろ思いを
 馳せていた次第です。 



 2011年 3月3日 (木)


同じく1991年の「夕張商工会館」。    この写真だと
画面左の外に「木馬」、坂道を右に下ると二丁目十字街、
入り口のシャッターと坂を挟んだ向かいあたりが「藤の家」
だった。

 【 木馬の思い出 Ⅱ】
 荒れ模様の天候でちょっと冬に戻った感じの北海道。 まあ昔から三寒四温などと
 申しまして、この時期は冬と春を行きつ戻りつしながら春になりますものね。

 前回、喫茶店「木馬」の写真を載せましたが、実は同時にもう一枚写真が出て参り
 まして、それは「木馬」とは梅が枝通りを挟んだ向かいにあった「夕張商工会館」
 の写真でした。

 一般の人はあまり中に入る機会もなかったと思うのですが、北高の吹奏楽部は昭和
 50年代初めの数年間だけ、夏の黒ダイヤ祭りの期間にOBの演奏会を開いていた
 ことがありまして、誰がどうやって手配してくれたのか判りませんが、ここを毎年
 その演奏会の練習場所に借りていたんです。メンバーは大学生が多かったですし、
 社会人のメンバーもまだ20代でしたから、今思えば連日夜遅くまで続く練習日程
 もさして苦にしていなかったものです。
 
 写真に写っているシャッターを開けると木製の開き戸があって、1階は面積のほと
 んどをステージを備えたホールが占めていました。 当時でも充分に古びた建物の
 床はホールもステージも学校の床のように油を染込ませた板張りで、古い建物特有
 のかび臭さと油の匂いが入り混じった空気が充満していました。 あの独特の匂い
 は今でも忘れません。 それでも木造が幸いしてか、特に管楽器には古い割には音
 が響き過ぎずちょうど良いくらいで、練習場所としては悪くありませんでした。
 今思えば建物の中の写真も一枚くらい撮影しておけば良かったなあ。
 
 学生のOBは夏休みの期間ですから午前中から練習していまして、昼は道路向かい
 の「藤の家」で蕎麦を食べたり、「木馬」で軽食を食べたりしていました。 前回
 書いた高倉健さんに遭遇したのもその頃の話です。「木馬」でコーヒー以外を頼ん
 だのはこの時くらいだったかも知れません。 また当時「藤の家」のカレー蕎麦は
 すでにメニューにありましたがまだ今ほど有名ではなく、私もほとんど「かしわ」
 とか「ざる」を食べてました。 なにせ練習の間ですから、管楽器をカレーを食べ
 た後で吹くと・・・楽器全部がカレーの臭いになって気持ち悪くなるんですよ。

 何回目かの演奏会の練習で、ある晩練習を終わって会館の正面から表に出てみると
 一面の雪景色になっていたこともあります。「え、今は8月だぞ。気温だって全然
 寒くないし。」 そう思って見直すと、それは雪ではありませんでした。 
 
 有珠山が大噴火し、火山灰が夕張まで飛んで来ていたのです。 直線距離でも優に
 百数十kmはある有珠山でこうなんですから、夕張の土地が距離的に近い十勝岳の
 火山灰地であるのも納得ですが、いや最初の一瞬は本当に雪に見えました。 

 昨年久し振りに通った梅が枝通り。「商工会館」はすでに更地になっていました。
 人物のスナップは撮っても建物や街並みは、特に見慣れた何の変哲もない街の風景
 というのは中々撮影していないものです。 若い時には今はいつまでも今のままだ
 と信じて疑っていないので、過ぎゆく一瞬の重さなど想像すらしませんしね。

 思い出は思い出として心の中にだけあればいいんだ、という考えもあるでしょうが
 後年の資料にするのなら、今の夕張の何でもなさそうな風景をカメラに納めておく
 のは大事なことかもしれませんね。



 2011年 3月1日 (火)


写真は1991年、店はすでに閉店していたと思う。
右奥には「みやさか」や「グレース」の看板も見える。
さらに画面外の右へ進んだ道路向かいに「コンパ」が
あった。 こちらは今も営業中だそうである。

 【 木馬の思い出 】
 3月が始まりました。 この時期いつも風邪なんだか花粉症なんだか判らない体調
 に悩まされ、せっかくの春が楽しみきれない私です。
 
 さて、タイトルの「木馬」ですが、もちろん子供が跨る木馬の話ではなく、夕張の
 本町にあった喫茶店のことです。

 中学生まで本町界隈は年に一度か二度行くくらいの町でしたが、北高に通うように
 なって本町が徒歩圏内に入ると、急に足を運ぶ回数が増えました。「喫茶店」なる
 ものも高校生になって初めて入ったのですが、吹奏楽の先輩に連れられて行ったの
 がこの「木馬」です。
 
 本町の2丁目十字街の坂を上ると左手には先日閉店したカレー蕎麦の「藤の家」が
 ありましたが、「木馬」は梅が枝通りまで出た右角にありました。 梅が枝通りは
 ラーメンの「のんきや」からダンスホールの「アマポーラ」や、今も営業している
 喫茶店「コンパ」などが立ち並ぶ小路で、「おかむらデパート」の4階から出ると
 この通りでした。 
 
 70年台初めのこの頃、コーヒー一杯がどのくらいの値段だったか記憶が定かでは
 ありませんが、たぶん150円かそこらだったような気がします。 当時の私には
 150円は大金なので、本町へバスで行った記憶は猛吹雪の日以外ほとんどなく、
 いつも歩いて行っていました。 財布の中を見たときに50円玉を100円と勘違いし、
 コーヒーを飲んだら夕張駅からの乗り越し料金40円(定期券は鹿の谷駅までです)
 が払えなくなって仕方なく鹿の谷駅まで歩いたこともありました。 しかもそれに
 気がついたのは、夕張駅まで歩いて切符を買おうとした時で・・・それでも若いと
 いうのは恐ろしいもんで全く辛いとは思いませんでした。
 
 木馬には高校3年間と大学の帰省中を合わせかなりの回数行っているはずですが、
 ほとんどいつもコーヒー1杯だけで、それで何時間も居座られた日には店のほうも
 たまったものじゃなかったろうと思います。 「幸福の黄色いハンカチ」のロケの
 最中には、主演の高倉健さんがカウンターでコーヒーを飲んでいるのを見たことも
 あります。 友人たちと大議論をしたこともあったりして、「木馬」は学校と同じ
 くらい色々な思い出が詰まった場所でした。

 つい先日、押し入れから90年台に撮った写真の束が出てきたのですが、その中に
 たった一枚「木馬」の写真がありました。私が「木馬」に通っていた頃から20年
 ほど後の写真ですでに店は閉店していたと思いますが、「木馬」の写真は他に1枚
 も残っていないので、涙が出るほど懐かしく思えました。 この一枚の写真で色々
 な思い出が甦り、ちょっとしたタイムスリップ感を味わっていたところであります。







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音風景・夕張

ユーパロ谷 気まぐれ日記