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2011年 7月


 2011年 7月 29日 (金)
 【 登川小学校校歌 公開へ 】
 先日お受けした登川小学校の校歌の編曲が完成しました。 いつも出し惜しみなどはしていませんので、編曲完成とともに
 このHPで公開するのですが、少し前にこの欄で書きましたように、今回は8月6日(もう来週ですね)に行われる予定の
 登川小学校記念碑の完成除幕式で使用したいという前提が最初からありましたので、HPでの公開は式典でご披露した後と
 いうことにさせていただきます。 たぶん翌日の8月7日の公開になりましょうか。

 私の母は登川小に6年生の12月まで通っていたそうですので、ほとんど卒業生のようなものですし、祖父(母の父)は、
 今で言うPTA会長として校庭の二宮尊徳像建立の寄付集めに奔走していたそうです。 そのほか、登川小の教師を務めた
 伯母もいたりしまして、我が家にとって登川小学校は何かと縁がある学校です。 今回の式典には私も楽器を持って参加さ
 せていただくことになっていますが、これもまた縁なのかもしれません。

 その式典もだいぶ近づいてまいりました。 あとは好天を祈りたいと思います。



 2011年 7月 27日 (水)
 【 最近のあれこれに思う 】
 『なでしこJAPAN』
 彼女たちの世界一はほんとに素晴らしい。 実は私は普段からナントカJAPANという軽薄な呼び名が大嫌いで、なんで
 「全日本」じゃだめなんだ、こんなカタカナの呼び名やらユニフォームのデザインで格好つけてる前にまず勝ってこい
 いつも毒づいているのですが(注:意見には個人差があります)、今回の女子サッカーチームの勝利については文句のつけ
 ようがありません。 精神力が全てを解決するとは決して思いませんが、決勝などは精神力無くしては決して勝てない試合
 だったと思いますし、個人技よりもパス回し、つまりチーム力で勝ったところなど非常に日本的で、震災で打ちひしがれた
 方々にも間違いなく希望を与えたと思います。 「国民栄誉賞の授与」の声が上がるのも納得です。 ただ、今から想像が
 つくのは栄誉賞も受賞式を見たらきっと興ざめするだろうなということ。 これは彼女たちが悪いんじゃなく、「授与」と
 いうのは上の者が下の者に授けるもの、それは立場上も人格上もそういう関係であるものと解釈しているのに、今回の場合
 は逆に「授ける側」の人品が「授けられる側」より大幅に劣る気がするからです。 これはかなり違和感がある。「アンタ
 らに褒められてもなあ」って、まあ選手の方々も口にはできないだろうけど。  決して恵まれていない環境の下、不断の
 努力で最高の結果を出した彼女たちの爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかが。 誰がとは言わないけどさ。

 『中国高速鉄道事故』
 亡くなった方には心から哀悼の意を表しますが「起こるべくして起こった事故」と感じた人は多いんじゃないでしょうか。
 7月26日の道新「卓上四季」に「青いキリンの話」の続きが紹介されていました。 これはルポライター・早坂隆さんの
 著書「世界の日本人ジョーク集」からの引用で、「ある大富豪が自分に青いキリンを見せてくれたら賞金を出そうと言い出
 した。 これに対しイギリス人はそんな生物がいるか議論を始め、ドイツ人は図書館に行って文献を調べ、アメリカ人は軍
 隊を出して世界中を探した。 そうして日本人は・・品種改良を重ねて青いキリンを創り出した。」という話。 少し前に
 卓上四季で紹介されていたんです。 私はこの本を偶然持っていたので、実はこのジョークには先があることを知っていた
 のですが、はからずも26日それが取り上げられました。 いわく『実は最後に、「中国人は青いペンキを買いに行った」
 との落ちがつくが、礼を失すると考え、そのときは書くのを遠慮した。 しかし、いまあえて思う。 他国の技術を拙速に
 寄せ集め、自国民や世界に誇るだけ誇り、大事故を起こすくらいなら、車両の色だけ塗り替えて先進国の運行システムで走
 らせていたほうがましだったのではないか・・・・・』
  全くその通りだと思います。 いわんや検証もしていない事故車両を土中に埋めるに至っては開いた口が塞がりません。
 高速鉄道は昨日も不具合があったそうですが、統計的には中程度の事故29回に1回大事故が起こる、というのが定説です
 から、このペースだと確率的には半年以内に再び大事故が起こることに・・・。 そうならないことを祈ります。



 2011年 7月 24日 (日)

   写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

 ここも現在は石勝線のシェルターが目立つ。  駅舎は建て替わったが
 建っている位置は昔と変っていない・・・と思う・・。



     2010年10月7日撮影の千鳥が滝。 残念ながら紅葉には少し早かった・・・。

  下流側の吊り橋の上から撮影した千鳥が滝。  全国的に見ても、この滝の
  姿の美しさは掛け値なしに上位ランクだと思っている。 気品がありますよ、この滝は。



  現在の滝の上駅周辺。 枠外左に鉄道のシェルターがある。 

 【 シリーズ「駅」(10)滝の上駅 】
 続いてまいりました駅シリーズも第10回、いよいよ
 今回が最終回となりました。最後は夕張市の最南端、
 滝の上駅です。

 明治時代に北炭の駅として開業以来、国鉄、JRと移
 管されながら百年以上も続いている駅です。 残念な
 がら現在はここも無人駅で駅舎もモルタル壁の無個性
 なものになっていますが、待避線と思しき線路はまだ
 残っていて単線・単ホームではないので、ホームまで
 含めた駅全体から受ける印象は、昔と較べてそう寂し
 いものになってはいません。

 滝の上地区は昔から農林業の町でしたが、現在は林業
 のほうは廃れてしまった感があります。 以前は材木
 を積んだ貨車が引き込み線に連なっていたものですが
 今はもうその光景は見られなくなってしまいました。
 
 駅の裏手には有名な「千鳥が滝」があり、川端寄りの
 一帯は公園として整備されています。 春の桜も新緑
 の頃もきれいですが、ここが最高なのはやはり紅葉の
 季節でしょう。 かつて夕張川を遡って来た北海道庁
 の石炭鉱脈の調査隊を阻んだ滝には、現在は下流側に
 観光用の吊り橋が架けられ、景勝地として四季ごとの
 姿を楽しませてくれています。 

 以前もどこかに書いた気がするけれど、中学校の修学
 旅行で十和田・奥入瀬に行った後、滝の上出身の級友
 が奥入瀬渓流の感想文で「千鳥が滝のほうがすごい」
 と書いたことがあるのですが、彼の感想ももっともで
 千鳥が滝はスケールも周囲の景観も本当にすばらしい
 滝だと思っています。

 公園内にある煉瓦造りの変電所も健在で、昨秋訪れた
 際にも、観光客がレンズを向けていました。

 駅のほぼ正面、国道より少し高くなった所には滝の上
 小学校がありましたが、ご承知の通りこの春に閉校と
 なりました。 市内の各校の校舎が建築規格のせいか
 一様に単純な直方体を積んだ外観になってしまったな
 かで、滝の上小学校だけは体育館と一体の特徴のある
 建物でした。 閉校となった今でも集会所として地元
 のかたに利用されているようです。




 さて、これでかつての夕張市内の国鉄10駅の思い出
 をたどるシリーズはお終いです。 最後に今回各駅の
 懐かしく素晴らしい写真の使用を快諾していただいた
 HP
轍楽之路」の寺田牧夫様に、改めて心から感謝
 申し上げます。 


 今回使わせていただいた写真は1972年(昭和46
 年)3月、ちょうど札幌オリンピックが終わった直後
 のものです。 北海道にも高度経済成長の波が訪れ、
 夕張は新鉱開発に最後の希望を託していた頃でした。
 来年3月であれからちょうど40年、駅だけに限らず
 変わりゆき過ぎ去ったものの如何に多かったことか。

 毎日目にしていて日常と信じている風景も、時が経つ
 につれ列車の後部デッキから見る景色のように小さく
 なり、やがて消失点に収斂してしまう。 40年前の
 10枚の写真を見て、改めてそれを確認させられた気
 がしておりますが、いかがでしたでしょうか。




 2011年 7月 22日 (金)

   写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

 現在は石勝線のシェルターが目印である。  駅舎は今でもないけれど屋根つきの
 跨線橋があるので、悪天候時には跨線橋入り口が待合室代わりになりそうだ。





     
  十三里駅と東追分駅に停車しない列車があるのは、今も昔も変わらない・・・。

 【 シリーズ「駅」(9)十三里(とみさと)駅 】
 残り少なくなった駅シリーズ第9回は十三里駅です。
 この駅は昭和37年に駅ができた当初から無人駅、と
 いいますか駅舎が全くない駅で、私も一度もホームに
 降りたことがありません。 

 国鉄時代の夕張線の駅では、この十三里駅と東追分駅
 には停車しない列車もありました。 JRになった今
 でもそれは変わらず、最終列車は通過してしまうよう
 です。 現在も駅舎はありませんが、駅付近は複線化
 されているのでホームが二つあり、ホーム間の連絡用
 跨線橋もできたので、昔より立派になったと言えるか
 もしれません。

 駅名は追分駅の基点から13マイル(約21km)の
 距離にあたったことに由来するそうです。  現在の
 国道274号や、川端から追分へ抜ける道道462号
 が舗装され整備されたのは昭和50年代中頃ですから
 鉄道の果たしていた役割は今よりずっと大きく、この
 十三里駅の存在も今より重要だったと思います。
 
 7月3日の紅葉山駅の欄の一番下の写真に「旧道」を
 示しましたが、今の274号線が整備される以前は、
 滝の上までは夕張川の反対側を未舗装の道路が通って
 いました。  旧道は十三里駅の付近でも今とは違う
 ルート、線路を挟んだ反対側にありました。

 小学校の高学年の時、遠足でこの旧道を通って滝の上
 まで歩きました。 目的地は滝の上市街の手前、厚真
 へ抜ける予定だった道道1065号(残念ながら工事
 中止)が夕張川を超える付近にある滝で、5月中旬の
 文字通り五月晴れの空の下、私たちは旧道のちょうど
 十三里駅の前あたりを歩いていました。
 
 前を行くMくんが急に「何だか目まいがする」と言い
 出しました。 クラスのほかの数人も同様に目まいを
 訴えたので、先生は日射病を疑ったそうです。 そう
 言われれば私も少しふらふらする感じが・・・。今も
 そうですが、このあたりは田んぼの中の一本道で休憩
 する場所もないのですが、交通量が今とは比較になら
 ない程少なかったので、道路の端に腰かけて10分程
 休みました。 そのうち誰も目まいがしなくなったの
 でまた歩き出し、無事まで目的地に到着しました。 

 学校に戻ったのは午後遅くでしたが、ここに至ってよ
 うやく私たちは目まいの原因を知ることになります。
 十勝沖地震が発生していたんです。 私たちの一行は
 遠足の途中誰とも会わず、もちろん携帯電話などある
 はずもなく、何も知らず遠足を続けていたんですね。
 学校によっては轟音とともに校舎の壁にひびが入った
 そうですから、まさに「知らぬが仏」でした。

 はからずも今年3月、あれ以来ずっと体感したことの
 ない長周期の揺れを再び経験しました。 できるなら
 この体験はもう二度としたくないと思いますが、ただ
 そんなわけで、今でも十三里駅を見るたび、あの青空
 と音もなく地面が揺らぐ感覚が甦る私です。



 2011年 7月 16日 (土)
 【 販売戦略? 】
 今月になって何だか天候が不順で、窓の外は今も雨です。 本州は今日も猛暑だったそうですが、北海道は今朝などは寒い
 くらいです。 大丈夫か、夕張メロン・・・?

 数日前にCDのレーベル印刷をする機会がありました。 ところが途中からプリンタの調子が悪くなりまして、発色が変で
 文字の角もボケてしまうようになりました。 ネットで症状を調べ取説を読み返し、ヘッドクリーニングやらギャップ調整
 やらを試しましたが症状は改善されず、とりあえず不本意な状態のままCDを作成しました。 不思議に白黒の写真や文字
 はくっきり印刷できるので、どうもインクジェットのカラーのノズルに問題があるようです。 

 メーカー窓口に電話で問い合わせましたが、恐らく修理が必要な状態でしょうという回答です。 費用としては交換部品が
 不要で調整のみで済んだとしても1万円前後はかかるとのことでした。 同時に現有機種の不満点を挙げ、それが解消され
 る新しい機種を尋ねて型番を教えてもらいました。 これがネットで調べると最安価格は何と9070円!! 新品を買う
 ほうが直すより安いのね・・・。 ちなみにこの新型、画質も向上しCDレーベル印刷の他、コピーもスキャナーも付いて
 この値段だそうです。 大量消費の時代に逆らいたいのは山々でしたが、結局新しいものを注文しました。
 
 我が家のプリンタは、私の2台がエプソン、子供のがヒューレット・パッカードです。 どれもインクジェット式ですが、
 共通しているのがインクカートリッジが高価だということで、先日も家電量販店に替インクを買いに行ったら5980円も
 しました。  もちろん新品のプリンタにはインクも付いていますが、ということは9000円のプリンタに6000円の
 インクが付いている、ということですよね。 プリンタ本体って3000円なわけ??  これも販売戦略なんだろうけど
 何だか無性に腹立たしい。

 今日になってメーカーから電話が来ました。 問い合わせ窓口にかかって来た電話の中から、ユーザーを無作為に抽出して
 窓口対応のアンケートを取っているそうなんです。 型通りの質問の後、「どんな点についてでもご意見はありませんか」
 というので、まさに飛んで火に入る夏の虫、こってりとインクの不満を伝えてあげました。 コールセンターのかた、運と
 タイミングが悪かったと思ってあきらめて下さいね・・・。



 2011年 7月 11日 (月)

   写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

 昔はこの奥に新登川鉱(北炭の炭鉱ではない)があったそうだ。 写真の奥に
 コンクリートの基礎が見えるが、これが選炭機の跡である。  距離があるので
 そう大きく見えないが、選炭機は巨大な建造物だった。  


     写真提供 松田芳明氏 「写真集 ふるさと ヤマ 真谷地」  【転載厳禁】

 以前にも紹介した小学校方面を望む登川の冬景色。 写真奥の一段高いところが
 花園社宅と呼ばれた「社員」(北炭に直接雇用されていた管理職級以上の職員を
 指す戦前の呼称。)の居住区であった。   母の記憶によれば花園社宅の右端、
 地形が下がっている所にある樹木の陰の家が、炭鉱長の社宅だったらしい。


          写真は国土交通省 国土計画局HPより (1977年撮影)

 楓駅の写真と同じく、写真中に示した場所には、撮影時には既に「跡」となっているもの
 があることをお断りしておく。  「北炭合宿」の文字の上の白い矢印が、上の雪景色の
 撮影方向である。  
 【 シリーズ「駅」(8) 登川駅 】
 シリーズ第8回は登川駅です。
 登川駅は終戦前後まで私の祖父が駅長を務めておりま
 したので、我家には非常に縁(ゆかり)のある駅です。

 昭和56年7月に登川支線が廃止になり、駅も廃駅と
 なりましたが、確かその後数年は建物だけが残ってい
 たと記憶しています。

 駅舎の解体が始まった時、父に「駅長の名札が出てき
 たのですが取りに来ますか」と連絡があって、祖父の
 名前が書かれた木札を父がもらってきました。 今で
 もどこかに残っていると思います。

 駅の奥にはかつて選炭機があり、貨車の引き込み線も
 ありました。 楓~登川間は石炭を積んだ長い列車の
 入替えのため、ダイヤにない列車が数多く往復してい
 ました。母が「エデンの東」よろしく楓~登川を往復
 していたのもそういう列車だったと思います。
 
 戦後の数年間ですが、駅の更に奥に「新登川鉱」とい
 う北炭系列でない炭鉱もあったそうです。 北側の山
 の斜面には、大きく「新登川炭鉱」と書かれた看板も
 あったそうですが、わずか7~8年の間しか稼働しな
 かったようで、私は見た記憶がありません。

 駅舎の右に川が写っていますが、小さな橋が架かって
 いまして、その奥に「奥農地」と呼ばれた地区があり
 ました。 私の曽祖母はそこで暮らしていたそうです
 が、電気も水道もない場所でしたから、生活するのは
 さぞや大変だったことでしょう。 後年バイクでここ
 に行って廃屋を見た時には、よくここで暮らしていた
 ものだと驚いたものです。

 登川駅の小川を挟んだ向側には、北炭の「工作場」が
 建っていました。 坑内の機械を作ったり修理したり
 する工場で、機電の技師だった母方の祖父は、終戦の
 前後はここで働いていました。 ですから私の両方の
 祖父が、終戦当時この小川を挟んで働いていたことに
 なります。

 伯母は炭鉱病院で事務をしていましたし、父は戦後す
 ぐに登川中学校(まだ登川小学校に間借りしていた)
 で教師になり、定時制の登川高校にも勤務したりして
 最後は再び登川中に戻って定年を迎えました。 です
 から我家にとって登川は、よくよく縁のある土地だと
 いえるかもしれません。

 写真で示した以外にも、炭鉱病院の近くには映画館が
 あったり種々の商店もあったりで、昭和20年~30
 年前半の登川は隆盛を極めていました。 

 母の住んでいた社宅は下の写真の黄色の矢印の建物で
 した。 写真では高さが判りにくいのですが、線路と
 道路のレベルより、北炭合宿所のあたりからが一段高
 くなっていて、そこから社宅の奥まではほぼ同じ高さ
 だったようです。 母はさらに奥の沢まで入っては、
 ザリガニや虫取りをして遊んだ、と言っていました。
 当時は賑やかでしたから、熊も今ほど近づかなかった
 のでしょうね。


 夕張市のHPによれば、この6月末の登川地区の人口
 は22世帯・35人。 往時と較べると登川の人口は
 桁のゼロが二つも減った数字になりました。
 
 
 来月8月6日になりますが、有志の方々が登川小学校
 の記念碑を建立・完成するそうです。 実はその完成
 式典で、縁あって今編曲している登川小学校の校歌を
 演奏(といっても再生ボタンを押すだけなんですが)
 することになりました。 もともと私のやっているこ
 と自体が「音の記念碑」であると思っていましたので
 方向が同じということが、お引き受けした第一の理由
 です。 

 ただ同時に少しだけ頭をかすめたのは、すでに鬼籍に
 入って久しい私の祖父たちに、彼らが生きたこの土地
 で、私の作った音楽を聴いてもらえたら少しは喜んで
 くれるんじゃないか、という思いでした。 

 私の力が及ぶかどうかはともかく、少しでも往時の登
 川の姿を音楽とともに思い出してもらえることを、心
 から願っている次第です。



 2011年 7月 9日 (土)

 【 ばんだい号の謎 】
 昨夕のニュースで「ばんだい号」の事故から40年が過ぎたことが取り上げられました。
 昭和46年7月3日、丘珠空港を離陸した東亜国内航空のYS-11「ばんだい号」は、
 函館の北にある横津岳の中腹に激突し、乗員乗客68名全員が死亡しました。

 私も事故当時の報道は覚えています。 全道的にどんよりした日でした。 この事故には
 謎が非常に多く、その顛末は元NHK記者だった柳田邦男さんの「続・マッハの恐怖」に
 非常に詳しく書かれていますが、事故調査委員会の発表が、必ずしも事実を語っていない
 ということをよく示した本です。(私はこの本をぼろぼろになるまで読み返し、二冊目を
 買い直しました。)

 事故には必ず原因があり、正確にそれを解明することこそ再発防止への第一歩です。それ
 は決して個人の責任を問うものではなく、整然と事実と論理を集積すべきものの筈です。
 願わくば「フクシマ」の事故調査が「ばんだい号」の二の舞にならぬように・・・。



 2011年 7月 8日 (金)

   写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

 写真の駅舎は二代目の楓駅。  初代の楓駅は線路の北側が駅舎だが、この二代目
 の駅は南側が駅舎である。 駅の位置も紅葉山側に150mほど移動している。 この
 写真では画面奥が登川方向となる。 楓駅はいつもお盆に利用していたので、暑くて
 埃っぽい印象ばかりが残っている。 この前の駅舎のほうが少し重厚だった気もするが
 これも記憶が定かではない・・・。





          写真は国土交通省 国土計画局HPより (1977年撮影)

 写真の当時は石勝線は工事中だったが、国道274号線はまだ出来ていなかった。
 石勝線以外で現在も残っているのは、墓地と神社、それに変電所(今はガラス工芸館
 となっている)くらいだろうか。  あとは地形まで変ってしまったような気がする。
 変らないのは墓所で、我が家は最上部に墓があるのでかなりの急坂の上である。
 だんだんこの頃は登るのが辛くなってきた・・・。  なお、写真中に示した場所には
 この写真では既に「跡」となっているものもあることをお断りしておく。

 【 シリーズ「駅」(7) 楓駅 】
 シリーズ第7回は楓駅です。
 楓駅は現在は石勝線の信号所となっていますが、昭和
 56年7月まで旅客駅として使われていました。

 実は私の母は楓生まれで、小学校に入るまでを楓で過
 ごしています。 その後、登川には小学校卒業間際ま
 でいたそうで、それで母は楓・登川のことは今も随分
 詳しく覚えています。

 私にとって楓は母方の墓所がある場所なので、小さい
 頃から年に一度の墓参りで必ず訪れました。ですから
 楓駅も車が無い頃は定期的にお世話になりました。

 今回お借りした駅舎の写真は、昭和42年から56年
 夏の登川支線廃止まで使われていた二代目の駅ですが
 "Wikipedia"によれば、昭和37年に初代の駅舎が火災
 で焼失しているので、建物としては三代目ということ
 になりましょうか。 私は全ての代の建物を見ている
 はずなのですが、残念ながら焼ける前の初代の駅舎は
 ほとんど記憶にありません。

 これは私も記憶が怪しいのですが、確か初代の駅舎の
 時代は、楓駅は本線から分岐した場所にあって、登川
 方面に行く時には、本線上に出てから逆進していたよ
 うな気がします。 これもスイッチバックというんで
 しょうか。 二代目駅は普通だったと思うのですが。
 
 二代目楓駅は道路側からだと何だか目立たない場所に
 ありました。 場所は初代の駅より100~150m
 ほど紅葉山寄りに移動したのですが、なぜ場所を変え
 たのか理由はわかりません。

 母の生家は線路を見下ろす位置にありました。 更に
 一段上った場所の一番奥に北炭の浴場があって、母ば
 小さい頃よく利用したそうです。  近くの小屋では
 炭鉱の発破の穴に詰める粘土の筒を、今でいうパート
 のおばさん達が一日中作り続けていたそうです。

 私が昔、テレビで映画「エデンの東」を見ていたら、
 母があの有名な列車のシーンで「貨車なら私も毎日の
 ように乗っていた」と言い始めました。

 父方の祖父は隣の登川駅の駅長だったのですが、楓駅
 では母の家が隣駅の駅長と縁続きなのを知っていて、
 まだ学校に上がる前の母を「ほーら、遊びに行ってお
 いで。」と、セキ(石炭用貨車)の上に乗せてくれた
 のだそうです。 母の母が娘がいないことに気が付い
 た時には、娘は眼下の線路を手を振りながら走り去る
 ところなんだそうで、今では考えられないのどかな時
 代だったようです。(謹厳実直な祖父は相当イライラ
 していたようですけど。)

 以前のバス道路は旧楓駅前より少し西側を頂点に、ど
 ちら側へも下り坂になっていました。 父は一時登川
 高校(南校の定時制分校)で教鞭をとっていたことが
 あるのですが、登校時に同乗した先生の車がブレーキ
 が不調で、この坂を登川側に越したところで前のバス
 が停車し、右に避けようと思ったらそちらには親子連
 れがいて・・・結局、夕鉄バスに追突したそうです。
 幸い誰もケガはしませんでしたが・・・。
 
 その先生は数分前に父と「いやあブレーキ、調子悪い
 んだよね。」って話をしていたばかりだったそうで、
 父もヤバいとは思っていたそうです。

 なお、この話には後日談がありまして、後年北高で教
 えられていたこの先生の車に、私も学校祭の買い出し
 で、仲間数人と乗せてもらったことがあります。

 そしたら先生が急に「つかまれ!」って言うんです。
 「今この車の制動力と重力は釣り合った状態にある。
 即ちこれ以上スピードは出ないが、坂の下まで止まれ
 ない。 万一に備えて掴まってろ。」って・・・。 
 危うく親子二代で事故に遭うところでした。 

 先生、お願いですからブレーキだけはちゃんと直しま
 しょうね・・・。



 2011年 7月 5日 (火)

 【 夏・・・来たらず 】
 7月になってから不安定な天候の日が続いています。 昨日も午前中は強い雨と風でした
 が午後は日が差していました。 気温も全体に低めな気がします。 農作物などは大丈夫
 なんでしょうか。 夕張メロンの出来も気になります。

 ただ気温が低いのは私に限っていえば、ありがたいんです。 去年も書いた気がしますが
 何しろ狭い部屋の中にパソコンやらスピーカーのアンプやら、発熱を伴う機器が集まって
 いるので、室温はすぐに30℃を越してしまいます。 去年の猛暑に懲りて窓用エアコン
 は取り付けましたが、私は冷房に弱いのでできるなら使いたくないんです。 今年の夏は
 その点は助かっています。

 ここしばらくは夕張に関係した曲を2曲作っています。 うち1曲は登川小学校の校歌で
 来月の6日に記念碑が建立されるのに合わせ編曲のご依頼があったものです。 そういう
 事情ですので、今回の編曲に限っては「納期」がありますから、少しばかり緊張しながら
 進めてきました。 作業は比較的順調に進んでいますので、8月6日以降にはこのHPの
 中でもお聴きいただけると思います。 

 写真は数日前の夜に部屋の窓から撮影したものです。  35mmフィルムに換算して300mmの
 望遠レンズを使っても夜間の手持ち撮影で何とか写るのは、腕前のせいではなく高感度の
 受光素子と手振れ防止機構のおかげであります。  「夜景モード」にするだけで花火が
 撮れちゃうんだから、技術の進歩はすごいもんだなあ・・・。



 2011年 7月 3日 (日)

   写真提供はHP「轍楽之路」(寺田牧夫氏)1972年3月撮影  【転載厳禁】 

 この駅舎の向こうには、跨線橋や貨物用のクレーン橋、蒸気機関車の給水塔などの
 設備があった。 



          写真は国土交通省 国土計画局HPより (1977年撮影)

 写真の当時は既に石勝線の工事が着工していて、旧夕張線の線路の西側に
 並行して石勝線の整地が進んでいるのがわかる。 停車中の貨車は石炭車か。

 【 シリーズ「駅」(6) 紅葉山駅 】
 先月から続いているシリーズ第6回は紅葉山駅です。
 ご承知の通り現在夕張線は石勝線の支援となっており
 紅葉山駅は石勝線新夕張駅に駅名が変っています。

 国鉄紅葉山駅は、夕張の中では唯一国鉄の支線と連絡
 がある駅でした。鹿の谷駅は夕鉄、清水沢駅は三菱、
 沼の沢は北炭と、他の乗り換え駅は全て私鉄との接続
 ですが、ここだけは国鉄登川支線との乗換駅でした。
 早朝の札幌行きの準急に乗ると、紅葉山は登川からの
 接続待ちのために停車時間が長めで、子供心に発車が
 待ち遠しかった記憶が残っています。

 紅葉山駅構内の風景は、私の記憶の中では、跨線橋や
 貨物用クレーン橋の配置などが少し追分駅に似ていて
 ちょっと記憶が入り混じっています。

 旧紅葉山駅の駅舎は今写真で改めてみると、入り口の
 上に子屋根があったり、ちょっと風情がありますね。
 現在の新夕張駅には何度も行っていますが、駅舎の形
 が全く思い出せません。 実は札幌駅もそうですが、
 無味乾燥というか事務的というか、全く無個性な建物
 なのは非常に残念な気がします。

 駅舎の場所は今の新夕張駅よりやや滝の上側、現在の
 駅前のトイレのあたりだったでしょうか。 駅舎前は
 ロータリーのようなスペースがあって、駅前の面積の
 広さでは今も昔も紅葉山が市内で随一と思います。

 現在の石勝線は沼の沢との境界である夕張川に架かる
 高架の手前で夕張支線と分岐していますが、この写真
 の当時は駅を出るとまもなく楓・登川方面への分岐に
 なっていて、今国道274号沿いのコンビニが建って
 いるあたりに写真の踏切1がありました。 写真では
 わかりませんが、ここは線路が周囲より低くなってい
 て踏切がちょうど谷底になる地形でした。 昭和40
 年代前半まだ道路が砂利道だった頃は、例の混合燃料
 を使う伯父の軽自動車は、砂利に足を取られてこの踏
 切の坂を登れず、運転している伯父以外はみんな車を
 降りて車を押したものです。

 私の小さい頃はまだ今の274号線はなく、紅葉山か
 ら滝の上に行くには国鉄か、夕張川の右岸を通る旧道
 に頼っていました。 たぶんこのあと十三里駅の項で
 も書くと思いますが、小学校の遠足もこの旧道を通り
 ました。 遠足といえば、昔は「炊事遠足」というの
 もありましたよね。 下の写真の「紅葉山小」の文字
 が書いてある辺りは久留木という地名で、ここの河原
 には炊事遠足で何度も来たものです。
 
 久留木を過ぎ、踏切2を渡ると沢を超す地形だったの
 ですが、この写真の撮影時の数年前に玉ねぎを積んだ
 トラックがこの沢に落ちました。 トラックは引き揚
 げられましたが、荷の玉ねぎは放置されたので、悪臭
 は数年間も続きました。 ですからこの写真の頃は、
 まだ踏切2の辺りは相当臭かったと思います。


 時は過ぎ、先月紅葉山(新夕張)駅前に「道の駅」が
 開業しました。 かつての紅葉山駅周辺が、少しでも
 往時の活気を取り戻してくれれば、と願うばかりです。



 2011年 7月 1日 (金)
我が家の庭の石竹
 【 もう後半!?
 思わず感嘆符「」を入れたくなるほど時計の針の速度は早く、今年も半分が過ぎまして今日から
 後半戦です。 個人的には何だか最近ひどくバタバタしておりまして、おいおいまだ今年は何にも
 してないぞ、という感じで過ごしています。

 気まぐれを起こして庭に出てみますと、草花も何時の間にやら成長していて、ちょうど咲いていた
 セキチクの花を撮影してみました。

 セキチク(石竹)はナデシコ科の多年草で、学名は「Dianthus chinensis」、和名はカラナデシコ
 で原産国は中国、「ヤマトナデシコ」はこれに対し日本原産種を呼ぶもの・・・以上は全てネット
 で検索した情報で、実は私自身は家庭菜園の人参の葉もわからない植物音痴、家族にも呆れられて
 いる次第です。 

 ちなみにセキチクの花言葉は「女性の美」・・・植物に疎い私に代わってこの花を植えた方自身が
 この花言葉に相応しいかどうか、さらに「ナデシコ」となるとますます遠い気もしますが、それを
 別にすれば、きれいな花々を眺めるのもたまにはいいものですね。 







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