2015年 8月27日 (木) |
【 コンサートのお知らせ 】 |
所属しております北海道作曲家協会では、明後日の29日、札幌市教育文化会館会館でコンサートを企画しております。 目の前 に迫りましたが、当日券も残っているはずなので、ご紹介しておきたいと思います。 『第3回 北海道の作曲家展』 日 時 : 2013年8月29日(土)18:00開場 18:30開演 会 場 : 札幌市教育文化会館小ホール 入場料 : ¥2000 ※詳しくはこちらをどうぞ。 当会会員の作品のほか、一般公募の作品2曲も演奏されます。 演奏家の方々も実力派の方々ばかりですので、みなさんぜひ足を お運びくださいませ。 |
2015年 8月 23日 (日) | ![]() 札幌駅構内に佇む「北斗星」 |
【 さよなら北斗星/寝台列車の思い出 】 | |
いろいろ気忙しかったお盆も終わり、虫の声や夜風に秋を感じるようになりました。 札幌-東京間の寝台特急「北斗星」が、今日の9:25上野着の便をもって27年の歴史に 幕を閉じたそうです。 この「北斗星」の終焉により、「ブルートレイン」と呼ばれた 寝台特急はすべて日本から消えることになります。 私は学生時代から今まで一度も道外に住んだことがありませんので、青函連絡船も寝台 特急もあまり利用した経験がありません。 青函連絡船は中学/高校の修学旅行で合計 2往復、ブルートレインは高校の修学旅行でB寝台に乗ったのと、「北斗星」に札幌→ 上野の片道だけ乗ったことがあるだけです。 逆にいうと回数が少ないだけ記憶・印象が強いともいえるかもしれません。たった一度 だけ乗ったB寝台もそうで、当時まだ3段ベッドだった(後にはB寝台も2段ベッドに なりました。)B寝台に乗ったのは北高の修学旅行の日程の最後、東京から夕張に帰る だけになっている「上野-青森」間だけですが、この時の思い出は今でも忘れません。 記憶が正しければ、ずいぶん日も短くなった10月20日の夕方、上野を出発した私に とって人生初のブルートレインは夕闇の中を走り出しました。 乗車前にちらりと目に 入った上野駅のホームの端にある車止めを見て、ここが東北以北から東京を目指す人々 の終点であることを妙に実感したことを覚えています。 私は3段ベッドの一番下、向いは担任のY先生です。 最初のうちは寝台列車への物珍 しさできょろきょろしていた私も、もともと寝つきが良い方なのであっという間に眠り 込んでしまいました。 物が落ちたような音で目が覚めたのは、真夜中過ぎだったでしょうか。 半分寝ぼけな がらカーテンを開けた私が気付いたのは床に散らばったガラス片と刺激臭でした。それ が割れたウイスキーのポケット瓶であることに気がつくまで更に30秒は要しました。 上の段からは息を殺したような何人もの声が聞えてきます。 結局一人がそっと梯子を 下りてきて、ガラス片を拾い集め、床をタオルで拭きはじめました。 ものすごく時間 が長く感じましたが、たぶん2分かそこらだったかもしれません。 その後は誰も声を あげず、私も眠ってしまってそのまま朝を迎えました。 先生は起きませんでした。 言うまでもありませんが、眠りの深い私でさえ目が覚めたんです。 先生が気がつかな いはずはありません。 「知らないことにしておくから、後は何とかしろよ」というこ とだったのだと思いますし、このことで誰かが処罰を受けることもありませんでした。 あれから40年以上の時が過ぎました。 札幌-手稲間のホームに立っていると、回送 となる「北斗星」がゆっくりと通過していくことがありました。 遠ざかっていく赤い テールランプの光を、今になって妙に鮮明に思い出したりしています。 |
2015年 8月15日 (土) |
【 終戦の日に思う 】 |
昭和に換算し直すと今年は昭和90年。 今日は70回目の終戦の日です。 私は終戦後10年以上経ってからの生まれなので戦争の記憶は全くありませんが、私の両親たちの世代は完全に戦争経験者です。 終戦を仙台で迎えた父は、山の斜面にあった学生寮の窓からB-29による仙台空襲(昭和20年7月9日夜)の惨状を見たと言って いますし、国鉄に勤務していた母の叔父は富良野駅で艦載機による機銃掃射を受けた(昭和20年7月15日)そうです。 父は焼夷弾が落ちた市街地から距離があったので、我が身の危険は感じなかった(翌日のラジオで敵機を何十機も撃墜したという 放送が流れ、初めて「大本営発表は嘘っぱちだ」と気付いたそうですが)ようですが、大叔父のほうはちょうど昼休みで食事をし に帰った官舎が銃撃を受け、咄嗟に逃げた押入れの、彼が入らなかった半分を機銃弾が貫通したそうですので、まさに紙一重の差 で生き延びたと言っていいでしょう。(実際に駅で死者が出ています。) 父の世代にとって戦争は歴史ではなく、実体験を伴う 現実なんだと改めて思います。 昨日の首相談話をずっと聞いていました。 正直あまり心に響かなかったというか、どこか空虚な印象を受けました。 今や戦後 生まれが人口の8割を超え、首相自身にも戦争の記憶はありません。 今回の談話のどこか真剣さに欠ける不戦への言葉の数々が この国を再び戦禍に導くことのないよう心から祈るばかりです。 |
2015年 8月 8日 (土) | ![]() |
【 本町を行く(5) 】 | |
梅が枝通りを北(丁未方向)に戻ってみました。 「ホテル・シューパロ」(元の「おかむら百貨 店」ですね)の裏まで来てみると、扉のガラス が割れたままになっていて、なんだかうらぶれ た空気が漂っています。 こういう所がよけい 客離れを呼ぶんじゃないかと、ちょっと心配に なります。 ふと右手(山側)を見ると、かつて梅が枝通りに 店を構えていた店名一覧の看板がありました。 本当はもっと横に長い看板なのですが、画角が 足りず写せませんでした。 残念ながらほとん どの店が今は閉店していますが、改めて往時の 繁栄ぶりを窺い知ることができました。 |
2015年 8月 6日 (木) | ![]() |
【 本町を行く(4) 】 | |
昨日の道内は予報通り記録的な暑さで、道内は 8地点で過去最高の気温を記録し、札幌でも今 世紀に入って最高の気温(34.5℃)となった そうです。 湿度が高かったので昨夜は眠れな かったという方もおいでかもしれません。 さて右の写真は「梅が枝通り」を、前回より更 に鹿の谷側に進んだものです。 更地が増えた ことが実感できる一枚かと思います。 写真中央の赤茶色の屋根が北高の級友・K君が 今でも奮闘している歯科医院で、梅が枝通りは その手前の十字路まで。 十字路を右に折れて 坂を下ると「栄橋」のたもと、「マキタ電器」 の前に出るという街並みでした。 写真のアングルなら、全盛期には歯科医院の左 手前にダンスホールの「アマポーラ」があった はずですし、右には「幸せの黄色いハンカチ」 のロケに使った建物もあったはずですが、今は 中央付近に看板が見える「コンパ」の建物が、 かろうじて残っているくらいです。 |
2015年 8月 4日 (火) | ![]() |
【 本町を行く(3) 】 | |
相変わらず湿度が高い日が続いています。 明日は真夏日の予報で道内各地は軒並み30℃以上。 かなり厳しい暑さになりそうです。 先日の苫小牧沖のフェリー事故で、同じ船会社の同じ路線の一便早い船に従兄弟が乗船していたこ とを今日になって知りました。 最近は何度か東京と北海道を車で往復していたので、もしかして とは思っていましたが、運命というのはこういうものかもしれません。 さて、先月の夕張訪問の続きです。 「梅が枝通り」に出て、右手(南)側に向かってみました。 以前は喫茶店「木馬」だった場所(2014年11月19日のこの欄参照)には「縁笑」という看板が掲げて ありました。 そのまま進むと左手(山側)には「みやさか」と「GRACE」の看板が・・・今春 に「GRACE」は閉店したと聞きましたが「みやさか」は営業しているのかなあ。 かなり昔の ことになりますが、何度か行ったことのあるお店なので閉店はやはり寂しいですね。 前回も書きましたが、梅が枝通りでも更地になってしまった建物は多く、「夕張商工会館」のよう に自分が偶々来たことがあって覚えていれば別ですが、ほとんどの建物は無くなってから思い出そ うとしても以前に何が建っていたのか、さっぱり思い出せません。 街並みというのは、そういう ものなのかもしれませんけれど。 |
2015年 8月 1日 (土) | ![]() |
【 蒸し暑い夏 】 | |
8月になりました。 今年の道内は今日まで強烈な日差しでガンガン暑い・・という日はあまりなく、 何だか蒸し暑い北海道らしからぬ夏です。 全国的には九州が記録的な大雨で、関東はゲリラ豪雨と猛暑が交互というまとめになるんでしょうか? この十年ほどは極端な天候変化が恒常化している気もします。 ニュースでは調布で飛行機が落ちたと思ったら、苫小牧沖でフェリーの火災・・・乗物の事故が続いて いますが、いずれも大きな事故になってしまったのでは残念です。 個人的には調布の墜落事故のほうはメディアの伝えている「エンジン不調」や「過荷重による失速」が 主原因とすると辻褄が合わない部分が多々ある気がするので、軽々に推論でものを言わないほうがいい ような気がしています。 多くを書くと技術的に過ぎるのでここらでやめておきますが・・。 先月に続き、今月も29日に北海道作曲家協会主催のコンサートがあります。 なんだかバタバタした ひと月になりそうです。 |