2010年 10月30日 (土) | ![]() 調律中の昭和50年製の我が家のピアノ。 ピアノという楽器は長持ちするもんですね。 隣に電子ピアノもあって、そちらはもちろん 調律不要ですが、電子はやっぱり電子です・・。 |
【 初雪そんなこんな 】 | |
とうとう平地でも雪が降りました。 それも白いものが舞うというレベルではなく、一気に 積もる量まで降りましたので、朝起きて外を見たときはびっくりしました。 幸か不幸か、ちょうど我が家の車が故障しまして、前の晩にスタッドレスタイヤ装着の代車 と交換したばかりでしたので慌てずに済みましたが、朝一番で出かけなければいけない用事 があったので、偶然車が故障しなければきっと大騒ぎだったと思います。 今年はほんとに「秋がない」という感じで、猛暑の夏の余韻なのか、気温が高いままの日が 続いて、ようやく涼しくなったと思ったら、今度は昨年より1週間近くも早い初雪で、全く 慌しい年です。 最近は時間に少し余裕ができたので、数年前から曲想をあたためていた曲に手を付け始めま した。 他にも何曲か並行して作っているので、どれくらい時間がかかるか判りませんが、 少し集中してかかりたいと思っています。 そういえば26日の道新の夕刊にピアニストの深井尚子さんのコンサートの記事(札幌公演 は今日午後)が出ていましたが、深井さんは清水沢中学校の卒業生で夕張中学校校歌の作曲 をされた方です。 当時清中に勤務していた私の父の話によると、深井さんは中学時代から 今回のプログラムにもある「熱情」を弾いていたそうですから、ご本人が「ベートーベンは ライフワーク」と仰っているとおり、素晴らしい演奏をされることでしょう。 我が家にもピアノはあるのですが、狂いが目立ってきたので今日調律をしてもらいました。 古い国産のピアノですが、調律さえすればまだ物の役に立ちます。 35年前のピアノなの ですが、こうして見るとピアノというのは高価ですが長持ちするものですね。 外観も性能 も持ち主よりよっぽど痛みが少ない。 こっちは35年で外観も性能も相当ポンコツになり ましたが。しかもこちらは手入れのしようがないというか、今さら直しようがないというか、 まあ、しょうもないコンディション。 買い替えられるものなら、入れ替えたいもんです。 |
2010年 10月25日 (月) |
【 歴史の値段 :¥Priceless 】 |
10月21日、夕張市の公式HPで「石炭博物館のあり方検討委員会」の開催が告知されました。 今日は早くも第1回の委員会が開かれるそうです。 会の設置について何かこう唐突な印象を受けますが、これが「売却の公式化」のための下準備でないこと だけを願っています。 石炭博物館は私たちの父祖が築いてきた炭都夕張の歴史そのものなのですから。 |
2010年 10月24日 (日) | ![]() 奥に見える茶色のビルが桑島整形医院。 もちろん、とうに閉院しています。 屋上には今も わずかに「形」と「院」の看板文字が残っています。 右下に見える階段の下の先にお菓子屋さんがあった 気がするのですが、記憶違いだったかなあ・・・・。 (撮影点は旧第一中学校前の歩道橋の上です。) |
【 夕張40’s(フォーティーズ) その10 】 | |
若いころは向う見ずなことばかりやっていたもので、小さな怪我など始終していました。 おかげ様で大事に至るほどの怪我はしませんでしたが、病院に行かなければならない程度 までなら何度もやっています。 中でもこれは痛かった、というのが中学生の時に自転車で全力で走っていたときのこと。 カーブに差しかかったのでブレーキを握った瞬間、ブレーキワイヤーが切れたんです。 もちろんそのカーブは全く曲がり切れず、そのまま路外の金網のフェンスに激突しました。 体はまずサドルから前に滑って尾てい骨をフレームにしたたか打ちつけ、さらにそのまま 前に飛んで今度は男性の最も痛い箇所をハンドルのポストに・・今思い出しても痛い。。 その時は(というか、こんな経験はこの時限りですが)一瞬全視野が黄色になり、数秒後 今度は真っ黒になりました。 あまりの痛さに声を出すどころか息もできず、ゆうに1分 以上はそのまま地面にうずくまっていました。 時間が経つにつれ大事なところのほうは 徐々に痛みもなくなり、まあその後ちゃんと父親になれたところをみると、特に後遺症も なかったようですが、尾てい骨のほうだけは痛みがだんだんひどくなるんです。 翌日になっても痛みはひどくなる一方なので、ついに病院に行くことにしました。 その時訪ねたのが右の写真にある「桑島整形医院」(正確な院名か記憶が怪しい)です。 本町の市民会館の傍にありましたが、まず列車で夕張駅まで行くのが大変で座席に座って いるだけでも相当に痛い・・・。 夕張駅がひどく遠くに感じました。 調べてみると骨に小さなひびが入っていたのですが、ギプスができる場所でもなく、特に 神経などに心配はいらないので、「まあ痛み止めの注射を打っておけば大丈夫でしょう」 ということで、お尻に注射をされました。 これがまた今でも忘れられないほど痛い注射 でしたが、確かに痛みは遠のき数日間で痛みそのものも治ったので文句は言えません。 中学生という多感な年頃に、若い看護婦さんにお尻に注射をされるのは、恥ずかしいやら 情けないやら、注射の痛さとともに忘れられない思い出になりました。 私の親友も、私を含む3人で完成したばかりのレースイのツアーコースにスキーに行って 崖から転落しかけ、腰をやられてこの病院に半年近くも通うはめになりました。 さらに ようやく完治した頃、今度は体育の柔道の時に私が力に任せ無理やり投げ飛ばしたせいで 首を痛めてしまい、再び病院に戻って看護婦さんに「また来たの」と笑われたそうです。 おかげで彼にはいまだに「お前と一緒にいるとロクなことがない」と言われます。 そういえば当時の北高の体育館は木造の隙間だらけの建物で、天窓のガラスなど所々割れ ていたので、冬の柔道の時間は雪かきと竹箒でまず「除雪」(屋内で!)をしてから隅に 積み上げてあった畳を敷いて授業を始めたものでした。 もちろん暖房など一切ありま せん。 それでも若いというのは素晴らしいもので、その寒さでもほんとに柔道着だけし か着なかったのですから、そりゃあ体も強張って怪我もしやすかっただろうと思います。 などという記憶が、この写真を撮る短い間に次々と甦り、古びた病院の建物を眺めながら しばし感慨に耽ったのでありました。 |
2010年 10月22日 (金) | ![]() この春撮影した鹿の谷の「うさぎや」。 たぶん、昔のまんまの外観・・・・だと思う。 (夕張市鹿の谷1丁目23 Tel 0123-52-4533) |
【 いただきもの 】 | |
今日はおそらく今年最後の暖かさでは、というくらい良いお天気でした。 私の家のあたりでも最高気温が17℃くらいまで上がりました。 ただこの天気も今週末 までのようで、来週からは強い寒波がやってきて平地でも初雪が降るかもしれないという ことです。 いよいよ冬支度を始めなければならない季節になりました。 知人から夕張の「うさぎや」の「シナモンドーナツ」をいただきました。 我が家では 家内(夕張出身ではありません)がこのお菓子を気に入っていまして、夕張へ出かける度 に買ってくるのですが、私にとっては昔懐かしい味のひとつです。 ちなみにお値段は 1個¥85。 夕張市内ならセイコーマート以外のコンビニでも売っているそうです。 某コンビニに尋ねたところ、中々の人気商品なんだそうで、売り切れになることもあるそ うですから、気に入っているのは家内だけじゃないみたいですね。 お菓子屋さんですと、他に沼の沢の郵便局の近くにあった洋菓子店「ふじ井」のお菓子も 懐かしい味のひとつだったのですが、後継者がいらっしゃらないということで道路の拡張 工事に伴い閉店ししまいました。(今は店舗跡も更地になっています。) このほか定番としては「ぱんじゅう」も知名度が高いでしょう。 農産物のメロン・アス パラガス・長いもなどは既に有名ですが、こう見ていくと夕張のお菓子は意外に種類も多 くておいしいものがあります。 この時代ですから、ネット直販まではともかくインターネットで話題になることは、存外 宣伝効果があるかもしれません。 そんなわけで、いただきもののドーナツを食べながら、 今日の話題に取り上げてみました。 食べたことがない、というみなさん、お試しあれ。 |
2010年 10月19日 (火) |
【 しろばんば 】 |
「夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前 の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこめ始めた空間を綿屑でも 舞っているように浮游している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。 素手でそれを 掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを 引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。 しろばんばというのは"白い老婆" ということなのであろう。 子供たちはそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方に なると、それがどこからともなく現れてくることを、さして不審にも思っていなかった。」 読まれた方もおいでと思いますが、これは井上靖の小説「しろばんば」の一節です。 上の引用でご想像 のとおり、「しろばんば」とは雪虫を指す伊豆地方の方言です。 たしか私の世代では中学校の教科書に 抜粋されて取り上げられていた気がするのですが、覚えていらっしゃるでしょうか。 映画化もされて いまして、先日亡くなられた北林谷栄さん:若い方には「となりのトトロ」のおばあちゃんの声の人、と いうとお判りでしょうか・・・が主人公の少年の面倒をみる老婆役だったと記憶しています。 つい先日までは記録的な暑さだったのに、今日などはもう最低気温はひと桁。 その雪虫の舞う季節にな りました。 昔から雪の前ぶれと言われ「雪虫を見ると1週間で初雪」などとされていましたが、実際に 観測した記録ですと、場所によるのですが道内では雪虫初観測から15日~27日で初雪になるそうです。 言い伝えよりは少し時間がかかりますが、やはり雪虫は初雪の使者、ということですね。 先日のNHKの番組にありましたが、日本は同緯度の地域の平均の数倍の雨が降り、あのガラパゴス島で すら110種しかいない固有種が131種も暮らす奇跡の列島だそうです。 「しろばんば」の情緒も 日本なればこそ、ということでしょうか。 なかでもわが北海道は特に四季の移ろい(語感としては「うつろひ」かな)がはっきりした土地です。 確かに冬の厳しさは辛いですが、それも「奇跡」のうちかもしれません。 そう思えば来るべき厳しい 冬の使者である雪虫も少しだけ明るく見えてくる気が・・・やっぱりしないですかねえ? |
2010年 10月17日 (日) |
【 惜別の日来る 】 |
今日は夕張市内の小学校6校の合同閉校式が行われました。 午前10時から「文化スポーツセンター」 で合同閉校式が、午後からは清水沢小と滝の上小を除く各校で「惜別の会」が行われたはずです。 注)滝の上小の「惜別の会」は来週23日催行、清水沢小の惜別の会は行われません。 最も報道の早かったWeb版NHKニュースによれば、閉校式には291名の児童と540名の保護者と 市民が参加し、合唱などの披露のあと、各学校の校旗が市に返還されたそうです。 この後おそらく各メディアで惜別の会の様子なども伝えられると思いますが、公式行事としての閉校式は 終わっても、実際の閉校まではまだ半年近くあります。 各校の歴史に終止符が打たれ、これで各小学 校の全ての卒業生の母校や校歌が失われること、清水沢以外の地域から学校が消え去ること、正直いまだ に諦めきれすにいるのですが、今は夕張の子供たちが残る半年間それぞれの校舎での思い出をいっぱいに 詰め込みながら過ごしてくれることを心から祈りたいと思います。 |
2010年 10月16日 (土) |
【 29年 】 |
1981年10月16日から29年が経ちました。 今日は北炭夕張新炭鉱のガス突出事故が起こった日です。 93名の命を奪ったこの事故は、同時に夕張から石炭を奪う端緒ともなりました。 4年後の1985年には 三菱南大夕張鉱でも62名が亡くなる事故が発生し、1990年には夕張から全ての炭鉱が消え去りました。 その後夕張だけでなく全国から炭鉱が姿を消しています。 現在でも残っている炭鉱は釧路炭鉱(旧釧路 太平洋炭鉱)ただ一か所になってしまいました。 では石炭が不要になったかというとそうではありません。 炭鉱が閉山した一方で、国内の石炭消費量は 現在でも減るどころか増加傾向にあります。 経済産業省資源エネルギー庁のHPに近年の石炭の動向が 記されていますが、概略で言うと鉄鋼業で使用する原料炭と発電所で使用する一般炭がほぼ半分ずつ分け 合っており、その両者を合わせると現在の日本は29年前の約2倍の石炭を消費しているのです。 先日の尖閣諸島の一件で、希土類の輸入を中国一国に頼っている現状が問題になりました。 しかし石炭 とてほぼ全量を輸入に頼っている訳で、資源の自給という点でも危機管理の点でも、これで本当に大丈夫 なのかという気がします。 まして希土類などと違って石炭はまだ大量に日本の地中にあるのですから。 来年は事故からちょうど30年。 奇しくも先日の大河ドラマ「龍馬伝」の中で三菱の創始者岩崎弥太郎 が「これからは石炭だ、いつまでも石炭を外国に頼っていてどうする」と語る場面がありましたが、当時 も今も石炭の重要度に変わりはありません。 長年培ってきた採炭技術を絶やさないためにも国策として もう一度石炭の自給を目指してもいいんじゃないでしょうか。 それが石炭産業を支えながら亡くなられ た93人の方々への何よりの供養になるような気がしています。 |
2010年 10月14日 (木) |
【 揺れた思い 】 |
ZARDの「揺れる思い」の間違いではありません。 地震の話であります。 先ほど地震がありました。 結構大きな揺れでした。 私の住むあたりは震度2程度なのですが、あまり 良い地盤でないのと、家が北海道弁でいう「がっさい」もんで、体感震度は数値以上のものがあります。 前に書いた気がしますが、昔十勝沖地震が起きた時はちょうど遠足の最中で、今の十三里(とみさと)駅 の裏あたり(当時は紅葉山~滝の上間の道路は、線路を挟んで今の国道の反対側だった)を歩いていまし た。 その日は快晴だったので、クラスの半分くらいが一斉に目まいを訴えたときも先生は日射病を疑い 15分ほど休憩をとっただけでした。 田んぼの真ん中で揺れていることを認識する対象物が全くなく、 誰も目まいの原因が地震だったとは気付かなかったのです。 もちろん今のように携帯電話などありませ んでしたから、地震があったことを知ったのは、学校に戻ってきてからでした。 この日の記憶はもう一つありまして、夜になって強い余震があって、この時は家にいましたから、かなり 慌てました。 当時はまだ停電が頻繁にあったので、家の天井には蛍光灯とランプが並んでぶら下がって いましたが、これがちぎれんばかりに揺れました。 母は入浴中で身動きが取れす、居間にいた父や祖母 たちと私は、煮物の火を消したり、戸を開け放つのが精一杯でした。 清水沢小学校に通っていた高校時代の友人は、この日の昼の揺れで校舎の外壁に見る見るひびが入った、 と話していました。 夕張市内各地の揺れも相当なものだったんですね。 あれから40数年が過ぎまし たが、あの田んぼの中の道がうねるように揺らいだ感覚が、さっきの揺れで甦るのでした。 |
2010年 10月12日 (火) | ![]() 峠下の「山楽荘」。 建物の外形はほぼ残っています。 ![]() 滝の上変電所の建物。 煉瓦の建物っていいですよね。 |
【 ブラユウバリ 2010 #6 】 | |
このシリーズ最後は夕張の端と端の写真をご紹介します。 まず上の写真は、夕張(二股)峠の手前にある「山楽荘」の建物です。 昔は温泉が ある宿泊施設として、賑わっていた時期もあったのですが、記憶では平成になってま もなく廃業したんじゃなかったかと思います。 現在は完全に廃墟と化していまして 「心霊スポット」などと言われているそうです。(私はその手の話は信じませんし、 実際にその手の場所で一人でキャンプしたことも何度かありますが、何事も起きたこ とはありません。 単に私が鈍いだけかもしれませんが。) 宴会場もあったので、ここで結婚式を挙げた親戚もおりましたし、夕張で運転免許を 取った友人からは、この山楽荘が路上教習の転回点(Uターン場所)だったと聞いて います。 札幌からバスで帰る時も、山楽荘まで来ると「ああ夕張に帰って来たな」 という気持ちになったものです。 地元の方や夕張をまめに訪ねている人には珍しく ない景色でしょうが、長いこと夕張に帰っていない人には懐かしい写真ではないかと 思っています。 下の写真はこれまた皆さんご存じの滝の上の変電所跡です。 滝の上小学校の写真を 撮った後、久しぶりに寄ってみました。 先ほどの山楽荘が夕張の北の入り口なら、 こちらは南の入り口に位置していることになりましょうか。 残念ながらまだ紅葉に は早すぎましたが、改めて見直しても中々風情のある建物ですね。 夕張に出入りするには、この写真の2つの建物の前を通るルートのほかに、万字から 風致公園の横を通って丁未に出る道と、三笠の桂沢湖から大夕張に入る道が知られて いますが、実はもう1本あります。 南部東町からニニウ(占冠と福山の間)に出る 道道136号線です。 南部からシューパロ湖の左岸を通り、ニニウのキャンプ場の あたりに出るのですが、普通の車で行ける道ではありませんし、確か今は通行止めに なっていると聞きました。 ニニウに出る少し手前で浅い川も渡らなければならず、 何より周りには熊さんたちがたくさんおいでです。 私は20年くらい前に友人と オフロードバイクで行ったのですが、性質の悪い奴が案内標識を90度捻じ曲げてお いてくれたおかげで道に迷い、挙句に草で滑って沢に落ちて死にそうになりました。 2009年8月19日のこの欄で三絃橋の写った写真を紹介しましたが、この写真の道がま さにその道道136号線です。 写真の奥がまもなく南部、というあたりですので、 現在はダム工事で写っている道筋も変わったかもしれません。 さて、6回にわたってお届けした夕張各地の写真。 いまは何の変哲もない風景です が、数十年もすれば貴重な資料になるかもしれません。 デジタルカメラという手軽 な道具もあることですし、見慣れた日常も写真に残しておくといいもんだよなあ、と 改めて思ったりしたのでした。 |
2010年 10月11日 (月) | ![]() 工事が進む現・清水沢小学校。 かつての清中のグラウンドに建つ。 ![]() ほぼ全容を現した「夕張ツムラ」の工場。 背景の山が鬼首山。 |
【 ブラユウバリ 2010 #5 】 | |
まもなく(10月17日)小学校6校の合同閉校式が行われます。 来年4月からは 新生「ゆうばり小学校」がスタートすることになっていますが、校舎は現在の清水沢 小学校のものが改修されて使われる予定のようです。 その工事も既に始まっておりまして、旧清水沢中学校のグラウンドに建っている校舎 は先日訪ねた時も改修工事のまっ最中でした。 道路も学校の前から夕張川を越えて 元のボーリング場の少し清陵町よりの所までの区間が通行止めです。 もちろん橋も 渡ることはできません。(そういえば末広から夕張市役所までの昭和通りも工事中で 通ることができませんでした。) 写真でお判りのように校舎の改修は想像より大がかりな工事になっています。 校庭 部分にもだいぶ手が加えられているようですね。 夕張にたったひとつ残る小学校で すから、しっかりした環境整備を、ということなのでしょう。 道路も通行止めとい うことは、橋も含めて通学路として何か改善する目的なんでしょうか。 残念ながら 近づけなかったのでこの点は不明です。 さて工事中と言えば、何度かこの欄でもご紹介しました「夕張ツムラ」の工場ですが 外観上はほぼ出来あがったように見えます。 写真のような立派な門も完成しました。 薬草の試験的な栽培も始まっているようです。 前にも書きましたが、私も花粉症が ありまして、毎年春から半年近くツムラの漢方薬のお世話になるので、せっかくなら というのも変ですが、やっぱり夕張産の漢方薬を飲みたいものです。 ところで、工場の背後に見えるのは紅葉山から南清水沢にかけての住人なら、誰でも 知っている「鬼首山(おにくびやま)」ですが、同行していた家内が「私には鬼の頭 の形にも見えないけど、どうしてこんな怖そうな名前なんだろうね」と言うんです。 私もそれこそ小学校の頃あたりに先生か誰かに聞いた曖昧な記憶しかなくて、明確に 答えられなかったので調べてみたのですが、由来はこういう伝説のようです。 話の中に出てくる「西の山」ですが、実際に沼の沢界隈は十勝岳の大噴火による火山 灰地で、メロン栽培にもこの地質が関わっています。 残念ながら十勝岳は実際の 方位上は「東の山」になりますが、この点を除けば歴史とも符合していて、とっても 良くできた寓話だと思うのですが、いかがでしょう? |
2010年 10月10日 (日) | ![]() 夕張川にかかるこの橋。 もはや工事の方ですらこの橋ができた エピソードはご存知ありませんでした。 いい話だったのにねえ・・・。 ![]() 沼の沢神社。 しめ縄なんか、まだ新しいですよね。 枠外左に シートをかけてあったのが土俵だと思うのですが未確認です。 |
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【 ブラユウバリ 2010 #4 】 | ||
今日は10月10日。 「ハッピー・マンデー」とかいう妙な祝日設定にしたために 起源がぼやけてしまいましたが、以前の「体育の日」つまり「東京オリンピック」が 開会した日です。 気象学上の「晴れの特異日(確率的に特定の天候が多発する日; 現在は否定されている理論)」だったことで選ばれた昭和39年のこの日は、北海道 も快晴だったのですが、今日は小雨まじりの曇天です。 前置きが長くなりましたが、今日の一枚目の写真はこの橋からです。 正式な橋の名は「紅沼橋(こうしょうばし)」ですが、この橋が8月19日のこの欄で ご紹介した「ゆうこちゃんの橋」です。 実は先日「橋のあたりで工事をしている」 という話を耳にしまして、もしや取り壊されるのでは、と思い訪ねてみたのです。 確かに橋は工事中で通行止めでしたが、工事の方に伺うとただの補修工事だそうで、 橋が無くならないことは確認できました。 ただ、橋の向こうに住んでおられるのは 現在1戸だけだそうですし、かつては水田が広がっていた橋の手前一帯も今は荒れ地 と化していて、夕張は炭鉱が消えただけでなく農業も衰退しているんだ、ということ が実感できました。 もう一枚の写真は沼の沢神社です。 バス通りから緑小学校(旧沼の沢小学校)の前 を通り過ぎた先にあります。 沼の沢神社のお祭りは元の「敬老の日」・9月15日 でして、14日の宵宮には露店が並び、この写真の枠外右に今も残る舞台には芝居の 一座がやってきて、ずいぶん賑やかだったものです。 ちゃんとした土俵を使った 子供相撲大会なんかもありましたね。 祭り自体は今でも続いていて近くの緑小学校 の学校便り9月号でも紹介されています。 神社のあと、その緑小学校で写真を撮っていると、教頭先生に声をかけて頂きまして 校長先生にもご挨拶さしあげ、校舎の中も拝見して参りました。 |
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ちょうど昼休みでしたので、お願いして昼食中の写真を 撮らせていただきました。 左の写真が現在の緑小の 全校生徒・全職員です。(プライバシー保護のため画質 を落としてあります)全校生徒で27名。 1クラスを 2クラスにわけるかどうかは、41名を越すかどうかが 分かれ目だそうですが、今や統合後の「ゆうばり小学校」 ですら、1学年が2ラスになるかは微妙ということです。 頑張れ、夕張の子供たち。 |
2010年10月9日 (土) | ![]() ![]() 左が若菜中央小、右がのぞみ小の校庭になぜか立っているポスト。 実際に使われてはいないと思いますが・・・。 ![]() 旧清水沢小へ上る坂道。 十字路を超えた先で車止めになってます。 |
【 ブラユウバリ 2010 #3 】 | |
今回は北から順に市内を巡ったのですが、小学校の校庭になぜこれが・・というもの を見つけました。 右上段の2枚の写真です。 そう、「郵便ポスト」なんですね。 それも昔使われていた鋳物製で円筒形をしたポストです。 これが立っているのは「若菜中央小学校」と「のぞみ小学校」の校庭ですが、雰囲気 からして昨日今日立ったものでもなさそうです。 両校の前身はそれぞれ若菜小学校 と紅葉山小学校で敷地は変わっていませんから、もしかしたらその当時から立ってい たのかもしれません。 卒業生の方はきっと懐かしく思い出していただけると思うの ですが、どうして校庭に「郵便ポスト」だったのか、ご存知の方がおいででしたら、 教えていただきたいと思います。 さて下の写真ですが、清水沢駅は色々なサイトで紹介されていますので、私は逆方向 にカメラを向けてみました。 駅前の信号から旧・清水沢小学校へ至る坂道です。 左手に見える茜色の建物は「文化堂」書店。 周辺各学校の教科書や辞書の取扱も していましたから、足を運んだ方も多いんじゃないでしょうか。 私は清水沢の住人 ではありませんが、教師だった父が清中に10年間勤務していたため、使いで何度か 訪れたことがあります。 もちろん現在も営業中で、おそらくこの写真の画角の中だ けなら、風景のイメージは昔とそう変わっていないのじゃないかと思っています。 私の記憶だと、「文化堂」は以前は黄土色といいますか、少しくすんだ黄色系の壁色 だったと思いますが、「十字屋」「五津屋」「長寿庵」「千代寿司」、あとリリーズ のお二人の実家だった「ツバメ電器」、私の吹奏楽部仲間の実家だった「小松屋」な どと共に記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。 そうそう、この文化堂前の道へ曲がる清水沢駅前の信号が、私の知る限りでは「夕張 で最初の信号機」だと思います。(調べたわけではないので間違っていたらごめんな さい。) 設置されたのは昭和30年代終わりか昭和40年代初めだと思うのですが 清水沢駅前は当時からタクシーが常駐していましたし(この間もちゃんと駐まってい ました)、この信号機があり、夕鉄バス以外にトリコロール塗色も鮮かな三菱バスが 走っていて・・・私にはとても都会の雰囲気を感じる場所でした。 残念ながら現在の清水沢駅前は、訪れたのが平日だったにも関わらずシャッターが降 りたままの店も多く、それこそ「小松屋」の立っていた線路側の並びなどはすっかり 更地になっていて、往時の活気はありません。 ですから敢えてそちらの写真は載せ ないでおこうと思います。 右の写真一枚から、この周囲に広がっていた皆さんの 記憶の中の清水沢の風景を思い出していただけることを願っています。 |
2010年 10月8日 (金) | ![]() すっかり味気ない姿になった2010年10月現在の鹿の谷駅。 ![]() 無人のホームから夕張駅方向を望む。 かつては右奥が夕鉄の 車庫だったはず。 いま、めったに列車は・・・来ない。 |
【 ブラユウバリ 2010 #2 】 | |
昨日に続き、もう少し鹿の谷駅の写真をお送りします。 上の写真は現在の鹿の谷駅 の外観です。 「私の通っていた頃の駅舎は、こんなんじゃなかったよなあ」と思い ネットで検索して見ると、「轍楽之路(てつがくのみち)」というサイトに国鉄時代の 夕張線各駅の写真が紹介されています。 Weblogの2006年9月のところですね。撮影は 1972年の春ですから、札幌冬季オリンピックが終わった直後あたりで、私の記憶にあ る鹿の谷駅もまさにこれ、郵便ポストもこうだったと思います。 古い駅舎を見てしまうと、残念ながら今の駅舎は味も素っ気もない外観、としか言い ようがないですよね。 そうして駅のホームに出てみたのが下の写真です。 ホームの無粋な鉄パイプの柵は おそらく冬場に乗客を軒下に近づけないための「落雪対策」でしょう。 無人駅では 屋根の雪下ろしもそう頻繁にはできないでしょうから。 なんだか無人駅の「無人」 の部分が、この柵で強調されているようで、見ていると寂しさが倍増しました。 写真は夕張駅方向に向って撮ったものですが、今はかつての夕鉄ホームはなく、JR ですら単線でホームが一つしかないので、連絡橋はありません。 目の前には道路の 歩道橋のような屋根のない跨線橋があるだけです。 すでにご存じの方も多いと思いますが、「CGのSLで甦る炭轍と故郷夕張」という HPがありまして、こちらのページの2007.10.17のCGが、私の写真とほぼ同じアン グルです。 立派な連絡橋が線路を跨いでいますね。 私が高校に通学していた頃には、既に国鉄の2&3番ホームから更に右の部分は取り 壊されていたような気がしますが、もっと小さい頃は確かに非常に長い連絡橋が伸び ていました。 登校時に列車が到着するのは1番ホーム、つまり今回の私が立ってい る駅舎に隣接したホーム(蛇足ですがホームの番号は駅長室に近い順から数えます) ですが、帰りは2番ホームでしたから、この連絡橋は毎日上り下りしました。 高校 の時に一度通学時の荷物の重さを計ってみたことがありますが、楽器を持っている時 は12~13kgもありました。 それでもこの連絡橋の階段を辛いと思った記憶は 全くありません。 もし今そんな荷物を持っていたら、絶対にエスカレーターかエレ ベーターを使うでしょう。 エネルギーだけは有り余っていたのですね・・・。 3番ホームは回送列車や貨物列車のやり過ごし用で普段の乗降には使いませんでした が、臨時列車はこのホームを使いました。 早朝に出発する高校の修学旅行の専用列 車も、確かこの鹿の谷駅の3番ホームから出発したと思います。 北高と工業高校の通学生だけでも、たぶん当時の鹿の谷駅なら一日の利用客が3桁に 達していたと思うのですが、ここ数年何度か鹿の谷駅を訪れていて乗客に出会ったこ とは皆無。 もしかしたら鹿の谷駅が、いま夕張で一番さびしい駅かもしれません。 |
2010年 10月7日 (木) | ![]() 坂を下りるとしばらく線路下を歩いて 小さな橋を渡り、旧市場のところでバス 通りに出ます。 冬に転んだこと多数・・。 |
【 ブラユウバリ 2010 #1 】 | |
目線が面白いので毎回楽しみに見ていたNHKの「ブラタモリ」が、本日から新シリーズとして放送され るようです。 それにならってというつもりでもなかったのですが、本日お盆以来初めて夕張を訪ねてま いりましたので、今日から何回かに分けてあまり他のHPなどで取り上げられていない場所の話題を写真 を交えながら、ご紹介したいと思います。 まず第1回は右の写真からどうぞ。 この写真は下の10月4日のこの欄↓の話題と少し関係あります。 ・・・って、この写真では「どこの山道よ」と思われる方が大半でしょうね。 申し訳ありませんが、この写真に懐かしさを感じて頂けるのは北高に「汽車通」していた方だけです。 10月4日の欄に鹿の谷駅の写真が出ていますが、毎朝通学のために駅を降りますと、我々学生は駅から 前回の写真右斜め下の方向に歩きまして、未舗装の急な坂道を下っていました。 そのほうが近道でして バス通りには旧市場の所で初めて出るわけです。 この写真はその坂道の写真です。 ですから、まるで踏分け道のように写っているこの道は、写真では判 りづらいですが強い下り坂になっていて、正面の土手の上が線路なんです。 撮影点は、坂を下り始めて 2mほどの所ですが、私が通学していた30数年前と比べ左側の草木が劇的に成長していまして、北高の (もちろん現在は「ひまわり」です)姿はここからは全く見えなくなってしまいました。 かなり急な坂道ですし、もちろん舗装などされていません。当時は、正しい呼び名は知りませんが赤褐色 の鉱宰のような土を撒いてある程度で、雨の日はぬかるみますし、冬は何度も転びました。 どうしても 列車に間に合わない時には、この道を通らず洋裁学校の下の踏切から線路を全力疾走(もちろん鉄橋の上 も!です)する、という奥の手を使ったこともありました。 駅からはスピーカーで怒鳴られましたが。 高校の卒業式を終え、最後に乗った通学列車の最後部のデッキから、遠ざかっていく高台の母校を眺めた 記憶があります。 例の新聞紙に包んだ天ぷらと学生鞄を持ち、この急な坂道を駆け上がっていた時代は、 ちょうど列車のデッキから後ろを眺めているように、いつの間にか彼方に遠ざかってしまいましたが、何 年経ってもこの頃の記憶は色褪せない気がします。 たぶんこの坂を上り下りしたたくさんの方もきっと 同じような気持ちでは?と思っているのですが、いかがでしょうか。 |
2010年 10月4日 (月) | ![]() 北高時代の友人が撮影した鹿の谷駅。 北高と工業の通学生で混雑していたこの駅 も今はホーム1つの無人駅です。 |
【 夕張40’s(フォーティーズ) その9 】 | |
このシリーズ、「その8」を書いたのは4月6日でしたので半年も間が空いてしまいました。 前にも書いた気がしますが、若い頃に馴染んだ感覚・・・五感にまつわる全ての感覚というのは、はるか 時間が経ってから蘇ることがあります。 例えば「雨の日の小学校の廊下の匂い」なんてのは、50年近 い月日が経っても忘れないものです。 中には「運動会の昼休みに欲張ってバナナを7本食べた時の鼻血 の味」なんていう覚えていたくないものもあるんですが、これは体が覚えているので忘れないんですね。 そんな記憶の一つに、高校(北高)の頃よく食べた「天ぷらの匂い」があります。 味ではなく「匂い」 です。 それも正確には天ぷらの匂いではなく、天ぷらを包んでいた新聞紙の匂いです。 高校では部活(吹奏楽)に熱中しておりまして、経験のないみなさんは吹奏楽というと文科系のクラブと お思いでしょうが、どっこいあれは体育会系でして相当体力を使います。 ただでさえ育ち盛りの年頃 なのにエネルギーを使いますから、クラブが終わった頃はかなり腹が減ります。 仲間の多くと共に列車 で通学・・・いわゆる「汽車通」ですよね、当時でもSLじゃないんですが・・・していた私は、家まで 空腹が我慢できなくて、途中で何か食べるわけです。 食べるのは、まあその時によって鹿の谷駅の売店 だったり昼のうちに準備しておいたパンだったりしたのですが、一番印象的かつおいしかった記憶のある のが、洋裁学校の坂を下ったところにある天ぷら屋さんの惣菜用の天ぷらでした。 確か「あべ」さんという天ぷら屋さんだったと思うのですが、漢字で阿部だったのか安部/安倍だったか 記憶が定かではありません。 まあ、とにかく揚げたての温かい天ぷらですから、とてもおいしかった。 ただ不思議なのは「おいしかった」というのは、そういう記憶が経験的知識として残っているだけですが、 揚げたての天ぷらを、くるんである新聞紙から出す時の天ぷら油とインクの入り混じった匂い、天ぷらの 熱さや油が新聞紙を通して手につく滑った感じ・・・は今でもそこにあるように思い出せることなんです。 人間の記憶の仕方って不思議に出来てますよね。 そういえば確かこの店の息子さんが、1学年か2学年下に入学してこられまして、クラブの同級生たちと 何とかうちのクラブに勧誘すれば、天ぷらがタダで食えるんじゃないか、と半ば真顔で計画したことがあ りましたっけ。 ゆうべ家内が天ぷらを揚げる匂いで、こんなしょうもないことを思い出したのでした。 P.S. 当時通学に使っていたのは国鉄の「キハ22」という気動車でした。 車両の外側と、出入口の 隔壁の客室側にはキハ22という形式名のあとに一台毎に号機が書いてあったのですが、中に222号機 という車がありました。 つまり「キハ22-222」というわけです。 これこそ「だからどうした」 という記憶の最たるものですが、恐ろしいことにネットだとちゃんと写真が見られるんですね。 同時に 旧紅葉山駅や楓駅、登川駅の写真も見られるようですので、ここにご紹介しておきます。 |
2010年 10月1日 (金) | ![]() 本文とは何の関連もありませんが、 在京の我が子撮影の東京スカイツリー。 秋空に伸びつつあるこの塔も、きっと50年 経てば、ノスタルジックな映画で今の時代 の象徴として描かれるのでしょうね。 |
【 千代田中学校 校歌を追加 】 | |
今日からあっという間に10月がやって来ました。 9月の最初はまだ夏が続いていましたが、さすがに ひと雨ごとに気温が下がっていくのが実感できる季節になりました。 さて、先日お伝えしたとおり、リクエストがありました千代田中学校の校歌を新たに公開いたしました。 どうかお聴きください。 また写真・資料などをお持ちの方がおいででしたら、順次ページでご紹介いた ますので、どうかお送りください。 なお29日のこの欄でご紹介いたしましたが、3日日曜に東村山で夕張を題材にした朗読劇がございます。 私の音楽を使っていただいておりまして、月をまたいでしまいましたので、改めて下記に詳細を記します。 お近くの方がおいででしたら、どうかご覧になって下さい。 ---------------------------------------------------------------------------- 朗読劇『夕張 炭坑街の記憶』 (この朗読劇には東村山市民の方も出演します。) 日時 平成22年10月3日(日) 2回公演 昼の部 午後1時~ 夜の部 午後5時~ 会場 東京都東村山市中央公民館ホール (西武新宿線、西武新宿駅から急行で30分の東村山駅から徒歩3分。) 料金 ¥1500(未就学児は入場不可) |